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2022年、振り返り。


思い返してみれば、今年は年明けからずっと悪意と敵意に曝され続けた一年だった。

割と理不尽な理由で、色んな相手から代わる代わる攻撃を受け続け、なかなかに苦しかった。

しかし、そんな中で学んだのは「反撃」じゃない「自己の守り方」というものだった。

今年、私は「法律」という他者の力に救われることがままあった。

人と人とが共存するために敷かれた法は、社会生活に於ける問題の答え。
ある意味無機質で、しかし、人間に対して大きな力を持つそれは、とても心強かった。

「いざとなれば自分を守ってくれる大きな力」

その存在を知っただけで、「胸を張れない自分」から「胸を張れる自分」へ私を救い出してくれた。
悪意と敵意を込めた罵倒で「私が悪いのだろうか」と疲弊した心に、自信を取り戻させてくれた。

曝された悪意のまま自身も反撃に走ったら、結果苦しむのは自分自身なのだ。
どんな理由があろうとも「敵意を持って他者を傷付けた」ことは罪悪感として、自分を縛り付ける。

実際に、そうだった。

あの罪悪感は、他者から受けたどんな攻撃よりも苦しかった。

自分を攻撃へ走らせない、敵意と悪意に呑まれない為の「自分から自分を守る力」が私には必要なのだと知った。

『安心感』

「法律」のように「自分を守ってくれる他力」を知ったなら、自らの手を汚そうなんて思わずに済む。

親の愛情を一身に受けて育った子どもは穏やかで、それが叶わなかった子どもは攻撃的になってしまうのも、きっとそういうことだ。

「自分が戦わなきゃ」

そう思って生きてきたんだ。

人生において、理不尽に傷付けられ、苦しい思いをすることはある。割とある。

悪意に曝されると心は歪み、やられたらやり返したくなって、他者の幸福が許せず、壊したくなる。
怒りや妬みが擦り込まれた心は腐り果て、いつしか自らが他者を傷付けるようになってしまう悪循環。

「自分で戦わなくて良い」

そう心から想えることが、安らぎへの第一歩なのかも知れない。

誰も傷付けなくて良い、嫌わなくて良い。
本当に危ない時には助けてくれる者が在る。
他者を慈しむことに心を尽くして良い。

なんて幸福なのだろう。

そんな心の在り方を叶えるため、そんな存在があることを伝えるのが宗教だったのかも知れない。
『他力本願』を説いた親鸞聖人は、特にそんな想いがあっただろうな。

「必ず救われる」

この一言を呑み込めたなら、それだけで救われる人が、この世にはどれだけ居るだろう。

「大丈夫」

説得力を以て、この言葉を吐ける人になりたい。



一年間、ありがとうございました。

来年もよろしくお願い致します。


ありがとう、だいすき。