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心は学び、優しさを知る。

図書館での企画が始まってから早一年。
来月は、全校生徒に向けての講演会が開催される。

卒業してから13年、再び学校へ足を踏み入れることがあるとは思わなかった。
来月の講演会場である体育館、私の中にあるその思い出は悪夢に近い。

当時の私は、教室には行けず相談室登校で、登下校やトイレすら他の生徒と会わないよう時間をずらしてしか出来ない状態にあった。

そんなある日、体育館で行事があると担当教師に相談室から連れ出された。
「後ろの扉から覗くだけで良い」と言われたから着いていったのだが、全校生徒の集まる体育館の中まで連れ込まれ、生徒達が並ぶ列へ着席させられた。
全員が揃った後に一人で入って来た私はもちろん注目を浴びた。
精神的なショックを受けた私は動悸と冷や汗が止まらなくなり、堪えられず体育館を飛び出した。

それからは、体育館を見るだけで記憶が蘇り、身体が震えるようになった。
しかし、当の教師陣は「少しでも式に参加出来て良かったな」と満足げだった。

そんなこんなで、体育館を含む学校という存在はとかく私にとって悩ましい。
出来ることなら関わりたくないし、教師はそれだけで嫌悪の対象だ。

しかし、これが健全な状態でないことは自分が一番分かっている。
何かを嫌うことは己を一番苦しめる、こんな想いは出来ることならしたくないし、他人にもして欲しくはない。

人間誰しも、傷付きたくないし傷付けたくないのだから。

しかし、己は己の考えでしか生きられない。
体育館の件みたいに、自分にとっての優しさが他者を深く傷付けることも少なくない。

優しさは想いだけじゃ成り立たない、知識と経験が必要なのだ。

「他者は自分と違う心を持っている」

それを知るだけで、接し方は大きく変わるだろう。

無知は罪ではない。
しかし、学ばないことは罪なのだ。

きっと、あの頃の教師陣だって、誰も私を痛め付けたいとは考えていなかった。
ただ「学校が恐ろしい」心が分からなかっただけなのだ。

そんな想いもちゃんと伝えれば、伝え方さえ間違えなければ、人は力を貸してくれる。
誰だって、傷付けるより喜ばれる方が心地好いのだから。

「優しさ」とは、なにかを「してあげる」ことではなく「知る」ことなのだ。

子どもの世界は大人が作る。
子どもを健全に育てたいなら、先ず大人が健全な背中を持とう。

人の心を学ぶことに終わりは無い。
誰もが学び、寄り添うことが叶ったなら、哀しいすれ違いはこの世から無くなるだろう。

そうして、どんな子ども達も須く「思い出したい学生時代」を過ごせますように。

そんな願いを込めて、言葉を紡ぐ。

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