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R3.3.20 正蓮寺


坂出市加茂町「正蓮寺」様の報恩講・春季永代経にて御法話をさせて頂いた。

この度は、報恩講・春季永代経共に「真宗は皆で生きる為の教え」という旨を中心に取り次いだ。

真宗は、法話の時間を特別大切にする。
私たちは「衆生」という「協力することで種を存続してきた」存在で、しかし「人はそれぞれ別の道理を持っているから争いは避けられない」という事実。
だから、共に生きるにはその為の心持ちを学ばなければならない。

争いの種となる「別の道理」は、言い換えれば「煩悩」「心」でもある。

それらは、私たちの苦しみの原因で有ると共に「人間らしさ」の証でもある。

故に、無くすことは出来ないし、無くしたら私が私ではなくなってしまう。

だから、親鸞聖人は「煩悩を抱えたまま共存する道」を探した。

それが『聞即信』の教えである。

自分と違う他者の道理・考えを、先ずは「聞く」こと。

納得は出来ずとも理解はして、自己を押し付けるのではなく「妥協点」を探す道を歩む。

獲信見敬大慶喜

聞く耳を持つということが、即ち仏の信心を得るということ。
信心を獲て他者の道理に耳を傾けるようになると、身の回りの他者の存在に気付けるようになる。

自分の力だと思っていたものが、実は他者に支えられてのことだった。
いま自身が此処にあることは、他者の力に依るものだという事実。

そうして生まれる、他者への敬意。

何気無い当たり前の日常に対する感謝、有難さ。

それこそが真宗における救い、安心である。

その救いの手立てとして作られたのが「念仏」

自己と他者が一体であることを、「挨拶」を由来とする作法を通して身に付ける。
そうして、日頃出遇う身近な他者にも「仏」に対するような気持ちで向き合えるよう心を養う。

社会がどれだけ便利になろうとも、人が人と関わらない時代は来ないから。

人は、いつか必ず老い、寝たきりになってしまうときが来る。

その時に頼れるのは「自分の心」だけ。

お金があっても、権力があっても、それを使える人が居なければ意味が無い。

だから、我が身が衰えてきた時に助けて貰える自分で在れるよう。

人は一人では生きていけないから
「この人と生きたい」と想われる人になりましょう。

聞く耳を持って、他者を敬い、安らかな日々を歩む。

そうして、安心を体現する皆さんの姿が何よりもの「布教」「報恩」です。

「一緒に生きたい」と想われる人になりましょう。
「語り継がれる」人になりましょう。

真宗には「妙好人」という呼ばれる方々が居ります。
特別に信心の篤い門信徒を指した方々です。

その中に「庄松同行」という方がおられました。
彼は、知識や言論ではなく「生き様」で仏法を語りました。

そうして、農家に生まれた青年が仏法を縁に、数百年の時を経った今なおその存在を語り継がれているのです。

これは、庄松同行が特別だったからではありません。
仏法に出遇った人は皆、そうなれる心を頂いているのです。

今日お参りに来てくださっている皆様も、庄松さんと何も変わらない。

仏さまの教えに出遇い、他者と共に生きる心を持った妙好人です。

だから、安心して生きてください。

そうして、大勢にじゃなくて良い、たった一人で充分。

先に生まれんひとは後を導き 後に生まれんひとは先を訪らえ

私の後を行く人が少しでも良い世界に生まれるように、大切な教えを遺して逝きましょう。

どれだけ社会が便利になっても、人が人と関わらない時代は来ない。
だからこそ「一緒に生きたい」と想える心を。

その為には、先ず私たち自身が幸せになりましょうね。

「一緒に生きて良かった」

そんな世界を生きることが、私たち真宗門徒の歩みなのかも知れません。

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貴重なご縁をありがとうございました。

南無阿弥陀仏

ありがとう、だいすき。