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鏡に映る自分を見るということ <3>

 ※<2>からの続きです。

 高村光太郎にとっての鏡の中の自分とはどんなものであったのか。
 それは、パリでの経験に語られるように、「非常な不愉快と不安と驚愕」をもたらす相対する自分であった、とは言えないだろうか。その相対する自分をみずからの裡に抱えながら、光太郎は芸術を追求し続けたのではないか。

 光太郎が抱えていたみずからの相対するものについては、ひとつひとつ詳しく述べる必要があろう。だが、ここでは駆け足を許していただきたい。
 それらは、<1>の最初に引用した呟きの通り、「日本/西洋」、「前近代/近代」、「権威/非権威」=「父(光雲)/子(自分)」、そして「錬金術/安全弁」という言葉に象徴される「彫刻/詩」。それから、「芸術/金」(『智恵子抄』所収の詩「美の監禁に手渡す者」に「両立しない造形の秘技と貨幣の強引」とある)。加えて、「あなたは本当に私の半身です」(詩「人類の泉」)と自己と同一化しながら、やがてその発病とともに引き裂かれていった智恵子との関係。そして、戦時の創作と、その反省としての「自己流謫(るたく)」……といったものがわたしには思いつく。
 光太郎にとって「鏡の中の自分を見る」という行為は、自身の中の相対するものを見つめる、ばねが外れるくらいにひじょうに苦しい行為であったのではないだろうか。そこから生まれたものが、光太郎の詩であり彫刻だった。盟友・荻原碌山の言う「struggle is beauty」=「相克は美なり」は、光太郎の作品からも感じとれるような気がする。

 そのような芸術活動をおこなってきた光太郎が、最晩年、最後に手がけた作品が「乙女の像」であった。
 すると、水鏡から着想を得た、一つの原型から造られたまったく同じ二つの像が向かい合うこの像は、光太郎の「相克の極み」に生まれたものだったのだろうか。
 わたしにはそうは思えない。なぜだろうか、この像からは相対するものとの葛藤、struggle(相克)といった激しいものは感じられない。
 最後の最後になって、感覚で物を言うのはいけないのだろうが、わたしは「乙女の像」には、もはや相克の行き着いた先、それを超えたところにあるであろう「調和」といったような印象を覚えるのである。ひとつの原型から生まれたまったく同じ二体が向かい合い、互いの存在を受け入れるかのように、手を合わせあう像。それは、相克に生きた芸術家・高村光太郎が、最後に「そうありたい」と願った自分自身をかたちにしたものではなかったか――そんなことを思う。


 私の彫刻がほんとに物になるのは六十歳を越えてからの事であらう。私の詩が安全弁的役割から蝉脱して独立の生命を持つに至るかどうか、それは恐らくもつと後になつてみなければ分らない事であらう。
              (高村光太郎「自分と詩との関係」1935年)

※高村光太郎の文章は、すべて『高村光太郎全集』(筑摩書房)に拠った。