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鏡に映る自分を見るということ <1>

 小田原のどかさんの『近代を彫刻/超克する』(2021年、講談社)を読んだ。彫刻家であり詩人でもある高村光太郎に関心をもつ者にとって、同書はとても刺激的な一冊だった。
 読了してまもなく、2021年12月下旬から、小田原さんが国際芸術センター青森(ACAC)で光太郎の「乙女の像」(十和田湖畔にある、二体の女性像が向かい合う彫刻)にかかわる個展をされるということを知り、青森の冬に畏れをいだきつつも、観覧に行こうと計画を立てていた。だが、青森はずっと大雪が続いている様子。タイミングを見計らっているうちに、感染拡大防止のためにセンターが休館となり、展示は会期途中でクローズしてしまった。アップルパイと温泉をかけて行こうと思っていたのに……。ひじょうに残念である。暖かくなったらアップルパイはリベンジをしたい。


小田原のどか『近代を彫刻/超克する』
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000356218


小田原のどか個展「近代を彫刻/超克する―雪国青森編」
https://acac-aomori.jp/program/odawara/


 アップルパイはさておき、『近代を彫刻/超克する』とACACのウェブサイトで個展の主旨を読んだあと、わたしはあるところでこんなふうに呟いた(一部抜粋)。

小田原のどかさんの『近代を彫刻/超克する』(講談社、2021.10)を読んで、高村光太郎について思いをめぐらす。
彫刻家・荻原守衛(碌山)は、超克じゃなくて「相克は美なり(struggle is beauty)」という言葉を遺しているけれど、碌山の盟友だった光太郎にも「相克」という言葉がついてまわるように思う。
「日本/西洋」「前近代/近代」「権威/非権威」=「父(光雲)/子(自分)」とか、光太郎自身の芸術活動における「彫刻/詩」(光太郎は「彫刻は錬金術、詩は安全弁」と言っている。これはとても象徴的)。それから智恵子との実生活でも「世間の常識/わたしたちのやりかた」みたいな。
その光太郎が最後に手がけた作品が、十和田湖畔の「乙女の像」。まったく同じ二体の女性像が向かい合う彫刻(たしか原型は一体)。
相克の終端に残したものがこの相対する像だと思うと、なんか深いなあ。
                        (2021年12月11日)


 足を運ぶことはかなわなかったACACの展示であるが、初日(12月25日)に小田原さんご本人によるトークがオンライン配信され、拝聴した。
 トークのなかで、たしか小田原さんは「乙女の像」にふれて ” ひとつの原型からできた二つの像がなぜ向かい合っているのか、わたしには謎です ” という意味のことをおっしゃっていたと記憶している(微妙なニュアンスの違いはあるかもしれない)。それを聞いて、ぼんやりと前掲のようなことを考えていたわたしは、「同感です!」と心のなかで叫んでしまった。

 「乙女の像」は、光太郎の亡き妻・智恵子だと言われている(『智恵子抄』に収められた詩「裸形」参照)。詩から光太郎に興味をもったわたしは、「乙女の像」は智恵子をかたちとして残した彫刻という印象しかもっていなかった。
 それが、縁あって「乙女の像」の小型試作の実物を間近で見る機会にめぐまれ、そこではじめてこの作品を構成する二体が「ひとつの原型からつくられたまったく同じ像」なのだと知り、驚いた。二体の像だから、原型も二体あるのだと思いこんでいたからである。
 以降、智恵子云々は別にして、一体の原型から鋳造したまったく同じ二体の像を、まったくの向かい合わせに配置する構成をもつ、この「乙女の像」が高村光太郎の最後の彫刻作品であるということに、なにか特別なものを感じるようになった。そう感じながらもしかし、深くは考えずに時間がずいぶんたってしまった。
 だがここに来て小田原さんの著書を読み、またトークに触発されて、あらためて自分なりに少し考えを進めてみようと思った次第である。

                           (次回に続く)