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100年早かった二人

「現代詩手帖」3月号の特集「詩と災害 記憶、記録、想起」。そのなかのアンケート「この一冊 この一篇」で、平田俊子さんが高村智恵子の手紙を取り上げ、「『智恵子抄』にはない智恵子の肉声が、手紙からは聞こえてくる」と書いています。
あまりに同感です。

高村智恵子、と言われてもすぐにピンと来る人は少ないでしょう。
彫刻家であり詩人の高村光太郎の妻、そして詩集『智恵子抄』にうたわれたヒロイン、と言われれば「ああ~」となるかもしれません。
当時としてはスキャンダルでもあった自由恋愛を経て結ばれながら、最期は狂気のなかで死んでいった悲劇の女性。
そんな「『智恵子抄』の智恵子」のイメージは呪縛だ、とあえて言いたい。

こまかい経歴は省きますが、智恵子は日本女子大学校を出た後、油絵を学び画家として活動していました。雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵はよく知られた作品です。
また、雑誌に寄稿したりコメントを寄せたりしています。選挙や関東大震災後の復興に関するもの、それから女性の生き方や恋愛論なども。
たとえばこんなことを言っています。

「『女である故に』ということは、私の魂には係りがありません。女なることを思うよりは、生活の原動はもっと根源にあって、女ということを私は常に忘れています」(大正5年5月5日号「婦人週報」)

一方の光太郎は、洋行帰りの美術家で、彫刻はもとより詩や評論も手がけ、どれも高く評価されています。現在でもファンは多いのではないでしょうか。
しかし、ジェンダー寄りの作品論・文学者論的にはさんざんに言われることが多いように思います。お互いにひとりの芸術家として認め合い、高め合うと言いながら、結局は智恵子を女・妻としての役割に置き去りにし、発狂に至らしめたと。
けれどわたしは、それにもたいへん違和感があります。

このふたりが書いたものなどを読んでいくと、智恵子、光太郎ともに旧弊にとらわれることをよしとせず、芸術家としてまた生活者として高すぎる理想を追求したように感じます。ストイックに過ぎた。それは大正の世において100年(いや、もっとかな?)早かった、と思うのです。
(西欧留学を経験し、日本を「根付の国」と呼んだ光太郎は、思想的に尖端を行っていた人だと思いますが、その光太郎が第二次大戦のさいに戦争詩に向かうのはたいへん興味深い。)

なにより、智恵子は若い頃から健康に恵まれませんでした。たとえば、与謝野晶子のように頑健で、現実に、家族を養うためになりふりかまわずお金を稼ぐというようなことができていたら、「『智恵子抄』の智恵子」にはならなかったのではないか、などと妄想してしまいます。


鼻濁音濃く残しいる女子校に高村智恵子も我も通いき 齋藤芳生(『桃花水を待つ』)