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桜の樹の下には…

 散り始めた桜を愛でながら川辺りを散歩していると、後ろから急に声を掛けられた。赤く大きくなった太陽が西の空に沈むや否や、天空を覆うコバルト色のマントが一気にその後を追う頃だ。振り返ると長い顎髭を生やした、五尺程の小男が橋の袂に突っ立っている。日が落ちたせいかその姿はぼんやりと浮かぶものの表情までは読み取れない。

「兄さん、時間を止める時計は要らんかね?」
近寄りながら嗄れた声がボソボソと呟いた。
「ストップウォッチの事かね。ほら、最新のスマートウォッチをしているので要らんよ」
昌吉は左手を軽く上げて、手首を前に突き出した。
「んにゃ。時間を止める時計だがね」
その男は答えながら、昌吉の眼前に大判焼きくらい大きさで、鎖にぶら下げられたものを示した。

「時間を止められる機械の事じゃが…、要らんかね?」
微かに桜の香りが漂う中、差し出されたものが昌吉の眼の前でユーラリ、ユラーリと揺れる。なんだろうと見つめる昌吉は、いつの間にかぼんやりとした、身体が浮き上がるような不思議な感覚に襲われた。辺りの景色はその墨色を更に濃く重ねていく。
「藪から棒だけど、あんたは誰かね?」
「そうさなぁ…」
男は徐ろに風に舞う桜の花びらを見上げながら、
「ここの桜守りの熊造、そう、可愛く”くまりん”とでも呼んでもらおうかねぇ。ファファファ…。で、要らんかね?」
と言った。
「面白そうだが、試しにやって見せてくれんかね。なかなか突拍子もない話なんで、おいそれとは承諾しかねるな」
「やって見せてもええが…、お前さん、時間が止まったことをどうやって確認するんじゃね?つまり、今、儂がこの機械でお前さんの時間を止めたとしよう。ほいで、今度時間を動かした時、”儂の時間は止まっていないので、お前さんの時間が止まっていたことが判るが、お前さんにとっては、もはや止まっている時間はそもそも『存在しなく』なっている”中で、その前後の時間が縫い合わされ一体化した状態になるのに、どうやって”止まって”いることを実感できるんじゃね」
僅かばかり昌吉の心が動揺したのを察したのか、男はニヤついた声音を言葉に載せてきた。
「なぁに、無理にとは言わん。儂も気まぐれに興が乗って、お前さんに声を掛けたまでで…。それに、金を払えというわけではない。貰ってくれんかねという話じゃ」
男は振り向いて橋を渡ろうとした。

 昌吉は「んっ?貰ってくれということは、タダで手に入ることじゃないのか。縦し騙されたとしても、こっちは失うものは無い。花見ついでの余興だ。それに上手く行けば色々と面白そうだ」と思い、笑みがこぼれた。
「そんなら、貰った!」
思わず昌吉の声が出た。
「おお、そうかぁ。そんならやる」
男は踵を返して戻ってくると、その大判焼きのような機械を昌吉の手のひらの上に置いた。ずしりと重い。懐中時計のような感じで、頭頂部に竜頭のようなものがあり、その先に鎖が繋がっていた。
「金は要らんといったが、すまんが受取り代わりに、爪楊枝でもマッチでも何でもええんじゃが、なにか貰えんかな?」
と男が言った。
昌吉が慌ててズボンのポケットを探ったところ、右ポケットに皺くちゃになった布があった。引っ張り出すとハンカチだった。端に昌吉のイニシャル”S”が小さく縫い込んである。
「こんなハンカチでもええかな?」
「おう、おう。これで十分じゃ。これを貰っちょこう。それから、貰ってもらったのにこんな事を言うのは申し訳ないけど、この機械はほんもんじゃが、使わんほうがええじゃろうな」
男は振り向きもせずハンカチの端を持ちヒラヒラさせて橋を渡って行き、やがて暗闇に消えてしまった。

 男が去ってから、昌吉は改めてその機械を見た。
「やると言ったり、使うなと言ったり妙なことを言いやがって。まあいい。本物なら色んな悪戯がしほうだいになるなぁ」
蓋のようなものを開けると文字盤があるのだが、数字ではなく見たこともない文字のようなものが巻き貝の殻のように彫り込んであった。
「本格的に使って見る前に…」
と卑猥そうな微笑みを湛えて独り言を呟きながら、昌吉は上についてある竜頭のようなものをクルクルと回してみた。それに合わせて文字盤がゆるりと動く。外縁部から中心に向かって文字のようなものが揃っていくような感じがする。何が何だかわからないが、止まっている時間か何かを表しているのだろう。竜頭の頭に親指を当てると、中へ押し込まれるような仕様になっているのに気づいた。
「なるほど…、ここがスイッチになっているのか」
「よし」、と昌吉は一瞬目を瞑り、声を出してそのスイッチを押した…。

数日後の朝刊にはこんな記事が出ていた。
「○○町に居住する大山昌吉さんが、▢日夕方5時ころ『桜を見てくる』と家人に告げて家を出てから行方不明になっている。〇〇町の桜といえば△△川沿いが有名だが、付近の橋の袂から見つかったハンカチに”S”の字の縫い付けが有り、これが大山さんのハンカチと確認できたことから、警察は大山さんが桜を見にここまで来て、何らかのトラブルに巻き込まれたと見ており、事件、事故の両面から捜査している」              [完]


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