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古傷は癒えないけど、生傷は癒えていく


鍼灸治療院のおじちゃんに「古傷は癒えないけど、古傷を生傷にすれば癒えるんだ」と言われたのを覚えている。(そのあとの施術は激痛)


心の傷は目に見えない。自分ですら奥にしまい込んで忘れてしまう。そして急に幻のように現れてはまた消える。いつまでも幻に怯えるのは疲れる。


何を着ればいいかわからなくなったとき、自分の心すらもわからなくなっていた。
自問自答ファッション講座に申し込んで、あきやさんと会って、ファッションを考えて、試着したり購入したり、勧められるがままにnoteに考えを綴っていったりした。自分の心境の変化は自分のことながら興味深かったし、周りのあたたかな反応に励まされて一年と半年が過ぎた。

ファッションという第二の皮膚を通して、傷を癒そうとしていたのかもしれない。
古傷を生傷にして。

まだまだ周りの反応に一喜一憂してしまう。
それでも行動した自分を認めたい。誰に褒められるためでもなく、自分のために装いを変えようと行動したことを。(それでも現実の世界での反応は気になるものである、それは矛盾だろうか?)


インターネット上につらつらと心情を綴っている。必ずしも安全ではないけれど、インターネット上の匿名性の中でも聖域はあるのだと思う。
わたしがどこの誰か、なんて関係のないインターネット。わたしがどんな姿かたちをしているか、なんて関係のないインターネット。しかし、インターネットでの自分もまた、ファッションのようにわたしの第二の皮膚なのかもしれない。
古傷を言葉にして生傷にしてじっと癒えるのを待つ。


あたたかなコミュニティの中で自分勝手な思いを綴る。少し自己開示をしすぎたものは下書きに戻している。自分の安全が第一だけど、誤ることもある。
(わたしは過去に書いたものを滅多に読み返さない。だから同じことを何回も書いているかもしれないし、前回の記事と矛盾しているかもしれない)

言葉にしてわかることがある。言葉にすると確かなものになると思っていて怖がっていたが、言葉にすると言葉は残るけど、心には残らない。心に新しいスペースが増えて、心がどんどん自由になっていく。



誰かの傷にふれたとき、大丈夫になるよ、と言える人になりたかった。
でもそれは、自分自身に言ってあげたい言葉だった。

自分の傷を振りかざしたり免罪符のようにはしたくないけれど、自分の思考も生き方もたくさん傷ついて出来上がったものだ。
その傷だらけの自分が考えるファッションなのだから、自分のファッションを愛することは自分の生き方を、傷も含めて全部愛することになるのだと思う。
傷が癒えればまた生き方も変わり、ファッションも変わっていくのだろう。

新しく傷ができるかもしれないけど、それも綴っていこう。ファッションの糧にしていこう。

ぜんぶ、大丈夫になる。

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