【光る君へ】清少納言の生涯
こんにちは!
よろづの言の葉を愛する古典Vtuber、よろづ萩葉です。
今回は僕の推し、清少納言の生涯をお話しします。
清少納言の出自
清少納言は平安時代中期の作家です。
生まれた年は不明ですが、西暦966年頃ではないかと言われています。
父親は有名な歌人、清原元輔。
三十六歌仙の1人であり、
後撰和歌集の編纂を行なった「梨壺の五人」の1人でもあります。
百人一首の、
という和歌の作者です。
さらに曽祖父の清原深養父も有名な歌人で、
という和歌が百人一首に収録されています。
そんな歌詠みの家系である清原家に生まれたのが、清少納言でした。
本名は「清原なぎ子」ではないかという説がありますが、証拠が薄いので真偽は不明です。
清少納言の結婚
清少納言の夫は、橘則光。
清少納言の一歳年上と言われています。
2人の間には息子が1人いますが、則光とは性格が合わず離婚。
別れてからも友人としては良い関係を築いていたようです。
兄と妹のようだったと枕草子に記されています。
清少納言の居場所を斉信に訊かれた時、口止めされていた則光はとっさにワカメを頬張りその場を乗り切ったというエピソードが枕草子に記されています。頭は良くないけど面白い元夫…
清少納言の就職
そして28歳頃、清少納言は中宮定子に仕え始めました。
定子は当時の天皇・一条天皇の妃で、時の権力者・藤原道隆の娘です。
この時、定子は18歳、一条天皇は14歳でした。
定子の母であり道隆の妻は高階貴子。
高内侍と呼ばれており、一条天皇の父・円融天皇に仕えていた女官でした。
「儀同三司母」の名前で
という和歌が百人一首に収録されています。
高階家は学者の家で、道隆とは宮中で出会い結婚しました。
高内侍は子どもたちに対して教育熱心な母親だったようで、
定子も女性ながら勉強のできる、頭の良い妃でした。
そんなところが夫の一条天皇に好かれたようです。
そして、同じく漢詩の知識があり頭の回転も早い清少納言と意気投合することになります。
清少納言と定子様の仲の良さは枕草子に詳しく描かれていますね。
彼女が清少納言と呼ばれ始めたのは、定子の元で働き始めてからです。
これを女房名といいます。
清原という苗字から付けられた呼び方です。
定子一家の没落と枕草子執筆
枕草子は定子に仕えていた頃に書き始められました。
定子の父・道隆が若くして亡くなり、弟の道長が娘の彰子を一条天皇に嫁がせてしまったことで、宮中での定子の立場が危うくなってしまいました。
清少納言は元々道長側の人たちと親しくしていたこともあり、定子に仕えている他の女房たちから裏切りを疑われてしまいます。
そのせいで一時期実家に引きこもってしまった清少納言でしたが、定子から信頼しているという手紙をもらったことで再び定子の元に戻る覚悟を決めます。
そんな状況下で書き始められたのが、枕草子でした。
やがて定子は体も弱っていき、出産の際に命を落としてしまいます。
まだ24歳という、早すぎる死でした。
清少納言や一条天皇たちが深く悲しんだことは想像に難くありません。
ですが枕草子には、そんな定子の姿は一切書かれていません。
清少納言が枕草子で伝えたかったのは、常に明るく楽しげな定子の姿だったんですね。
退職後の清少納言
定子が亡くなってから、
清少納言は藤原棟世と再婚し小馬命婦という娘を産んだとされていますが、詳しいことはよくわかっていません。
表舞台から姿を消してしまうのです。
娘の小馬命婦は、女房として彰子に仕えたようです。
紫式部との関係
源氏物語の作者である紫式部とライバルのように扱われることが多いですが、紫式部は定子が亡くなって数年後に宮仕えを始めているので清少納言と紫式部の間に面識はありません。
ですが枕草子は清少納言がいなくなってからも宮中で回し読みされていたので、紫式部は一方的に清少納言のことを強く意識していたようです。
ということで、清少納言の生涯を見ていきましたが、いかがでしたか?
定子様のために人生を捧げた女房、と言えるかもしれませんね。
清少納言の和歌については別の記事で解説しますので、よろしければそちらもご覧いただけたら嬉しいです。
ご覧いただきありがとうございました🖌️
動画で解説
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