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アサーティブ・コミュニケーションの前に

生活困窮者向けのグループホームへの転居に向けて部屋の物を少し整理し始めたものの、喉の閉塞感や吐き気が湧いてきたのでやってられなくなった。

なので、実質現実逃避として自分のFirefoxのブックマークの『mentallity』ディレクトリに入っているブログを眺めた。

いつも有り難い事に、nemoさんの『embryo』では、自分が気になっている話題がフランクながらも知的に述べられている。

という事で、今回は氏の『アサーティブについて』のトラックバック記事の様なものをまた書くのである。

アサーティブとの初回接触

アサーティブについては3年前くらいに今もお世話になっている病院の心理士さんに、
「まずアサーティブ」
という事で『改訂版 アサーション・トレーニング』を基軸に、コミュニケーションの不和への対処について進めてもらったものの、当時は、
「書籍で書かれている事は分かるのですけど、私にはそんな権利は与えられて居ないんです」
と返答した記憶がある。実のところ、今でも「ある特定の人と話す時は」と限定するものの、やっぱり私にはそんな権利は認められないとは思っている。

自分の様な人型畜生をカテゴライズすると、
ノンアサーティブタイプ
に分類される。

nemoさんの記事を読んだ時に、
「あー、俺みたいな捻くれている者の事をズバり言ってるな」
と感心したのが以下;

一見すると「被害者」かなんかに見えるのだが、不満は持ち、自分の意図は伝わっていると思い込んでいたり、何より「相手も自分と同じ気遣いをするのが当たり前」と思っていたるところがあるとされる。

私自身は頭の中でこの言葉通りに認識していたかと問われると全く無いものの、他人に言語化されると、
「うん、その通りだろう」
と思うのである。

権利の宣言を共有されているのか

nemoさんも『メモ』の章で述べているが;

コミュニケーションの大前提として、二者間で初めて成立するものだという点がある。つまり片方が片方の「権利」を認めない場合は、コミュニケーションとしてのアサーティブはその時点で成立しないことが確定する。自分がどうあるかは選べるけどね。

どっちかってーと、3つのタイプの対処法の方がアサーティブよりもよっぽど求められてる気がするけどな。アサーティブは自分がそういうことやってるからやめよう、って話であり、そういうのを相手にする方法とするにはちと弱い。

片方が片方の権利を認めない場合は、コミュニケーションとしてのアサーティブはその時点では成立しないことが確定する。

その通りである。

自分の体験を基に厳密に語るなら、
「お互いが権利を認めていたとしても、自分の権利の行使は認められている様子は受け無い」
という感想を抱くと、クソ面倒臭い事だが、
「権利を行使する意欲が失せる」
そして、
「権利を放棄する」
という事になる。

筆者の体験からの『権利を放棄する』実例

かい摘んで話すと、
「相手が自分の心情を決め付けた発言を受けると、
『あー、そうかー、そうだなー。お前には俺や俺の意見がそう見えるのだし、それを正そうとするくらいなら、俺がお前にそう見える様に振る舞うべきなんだろうなー」
という具合で、自己主張の権利を放棄する。

この発想は健全じゃないとは判るが、かと言ってその時の対話相手にそれを言っても、
「判ってるならやれ」
と一蹴される事しか無い。『覚えていない』と述べるのが正確なのだろうか?

ここ最近は本当にこの歪んだ発想がさらに拗れて腐ってしまい、相手の声音で怒っている様子を受けたら、自己主張の権利を放棄してしまっている。
親父との電話での会話しかり、同僚との会話でもしかり、とあるナルシストとの会話でもしかり。

なぜそうやって容易に放棄するかと問われれば、
「うんうん。あなたは私の事が気に入らないんですね。私なりに精いっぱいやったのですが、あなたが『甘え』や『怠慢』や『違う』と言うなら、もう私はあなたの感情を怒りに焚き付ける事しかできないですわ」
という発想で放棄する。

本来なら、
「ではどう振る舞うのが適切なんですか?」
と尋ねれば良いのだろうけれども、大方私の語彙力や構文解析の能力が低いので、
「お前は何を言っているんだ?」
という感想に至ってしまう。例:

「お前は『問題から逃げている』んだよ」
という親父の問いに対して、
「じゃあどうするべきなんですか?」
と尋ねれば、
「問題に立ち向かえ。努力しろ。弱音を吐くな」
と言われ続けている。

私個人としては、
「何回かは逃げてます。しかし最近は逃げないで対処したつもりなのですけど、むしろ自分の身体や頭がおかしくなっても働き続けたつもりなのですけど」
と思っている。しかしこれもあくまで『つもり』なので、親父の言う通りに、
「肉体労働に職種を替えれば済むのに」
という事や、
「人生には困難が必ず訪ずれるから立ち向わないと人間として……」
という、
「親父の考える人生像に従う」
様にしないと、その問題とやらから永久に逃げてる事になるのであろう。

ましてや親父は、
「お前は勝手に生活保護を需給しているが。俺には扶養義務が発生する。しかし経済扶養はしない。10年やっても自立した生活ができないお前には引き取り扶養しか許されていない。自立していない人間に選択権は無い」
という言い分である。日本国憲法の第三章全部無視ですか。30歳でも子供は親の所有物か。親父にとってはそうなのだろう。

この文章を書くにあたって、着信拒否した親父からのショートメッセージも確認したが、
「お前は結果しか言わない。過程とか何も喋ってない」
というメッセージが来ていたが、
「話してるはずなのだが」
という気持ちでいっぱいである。ましてや自分が、
「あーなにをいったらいいんだ……本音も出ねえ」
と思っていれば、
「言葉を選んでいる。本音で話せ」
と言われる始末である。

本音といえば、自分が派遣会社の営業と派遣先の同僚さんに『職務怠慢』で尋問を受けた際も、
「自分はこういう道理でこの様に命令を受けたので、(私の命令の解釈で)職務を行なっていたのですが」
と言ったが、
「だからさあ……」
と、私には根性論にしか聞こえない話をされ続けたので、それこそ私はアサーティブ権を放棄した。

筆者というノンアサーティブ畜生の性質について

さて、nemoさんの記事に戻ろう。

ノンアサーティブは、相手が自分の話をちゃんと伝わるまで聞いてくれると思っていない。会話が成立するとはじめから思っていない。話が通じない理由が、自分にあるか相手にあるかはそれぞれだろうが。

とりあえず自分自身の「話が通じない理由」は、自分に在ると認識している。

というのも、私は家族と話す時はほぼ、
「話がまとまってないから、まとめてきてから話しにきて?」
と言われた小学生時代だったり、今でも我ながら口を開こうとしても話がまとまらないので話をする事ができない。良いよな、口を開く前から話がちゃんと組み上がってる人は。

また、Qiitadonでお世話になっているし尊敬もしているものの、彼の言葉を適切に理解できないし、ましてや確実に「他者と同じ様に日本語を解釈できていない」という自負さえある。

というのもこの数年は、
「言われている事に全く関係の無い返答をする」
や、
「言われた通りに行動したつもりが、『全く違う』という指摘を頻繁に受ける」
という在り様なのである。

その辺りは、周り口説い述べ方になるが、
「自尊心を否定した主観による客観の生成」
しかできていないのかもしれない。自分は自分なりに、
「キャッカン」
しているつもりなのだが、その「キャッカン」が自己の体験や小説やフィクションから再現したものでしか無いのかもしれない。

また、DESC法で話を組み立てているうちに、話は6手10手進んでいるので、私は口を噤んでいるしか選択できないのである。ならずっと噤んでいられたら良いのだが、そうすると自分の生存権まで手離しかねないことになり、自害する手筈をしなければ行けなくなる。他人に殺されれば私個人都合は良いのだが、他人もこんな人型畜生の為に手を汚したくないだろう。

さて、nemoさんは次の様にも述べている:

語彙力がないせいで攻撃的、受動的、作為的な言動になる、というのは多分ある。国語力とコミュニケーション能力の関連は示唆されていることが多い。

今回の場合「はっきりと言葉で表現できない」ことからの歪んだ表出として。あるいは「この方が早い」という手抜きとしての手段。

冗談抜きで、自分が「言えてない」ことに気づいていない者は多い。これに気づかないと相手が「わからない奴」だからだという認識となるだろう。

この意見は自分も気づいた所なので、今の主治医の先生に伝えたが、その際に以下の自分の疑念も共有した:
「高校の頃は現代文の成績が良くて、特に『この時の筆者の気持ちを答えよ』の類の問題の正答率が高かったんですよね」
主治医の先生も、
「(興味深くて)面白いですね」
との事だった。

また、心理士の方にも、
「話す日本語に特別ズレた印象は無いですよ」
との事で、自分個人は結構困惑している今日この頃なのである。

オチ:nemoさんの記事を一通り読んだ感想

nemoさんの記事のニヒルな語り口調はなかなか癖になるもので、この「逆さの4つの柱」の章も自分個人は、
「そうそう、画面の前で『あなたの記事で言っている事が判る俺カッコイー』って自惚れてる自分の幻想に、鳩尾アッパーを加える様な言い回しが、本当に好き」
と思う。

いちいち世間様や常識や正義を持ち出し回りくどく、
上から目線であるいは被害者ぶって操作しようとし、
挙げ句自分が何言ったか相手にどういう意味を持つのか覚えてないし分かってない、
この上で相手が分かってくれて当然、汲み取ってくれて当然だと思っているような態度でコミュニケーションされる。

うんまぁ、話しかけられたくないタイプの人類だな。というか人類として認知できない。

自分は、
「人の型をしただけの畜生なので、どうも他人と話が通じないので、はやく人類になりたい」
という願いを込めて、『人型畜生』と自称している。

いや……『人型畜生』という『言い訳』と『セルフ・ハンディキャッピンク』だな。

フリー(自由)ウェアでの自由な創作活動の探求と推進したいっす。みんな妄想や空想をもっと書き(描き)出すといいと思うのだけどなあ……。