卒制の回想

いつからかは定かではないけど、考えてる、思考を巡らせてる、ことが自分にとって大事だったことを最近思い出す。

思い出すというのは、最近はシンプルにそういう難しいことを沢山考えなくても、時間が流れているのが増えたということ。

主人に出会ってから久しぶりにそんな生活が続いてるなぁとハッとした。

学生時代は特に、考えてないといけない、みたいなルールが自分の中にあった。
考えてないとなんとなく普通になっちゃう気がしてダサいなって思ってたし、なんにも考えずに幸せを安直に探して、チープな幸せになるのが嫌だった。
こういうと厨二病ぽいけど、ちゃんと理由というか、流された幸せじゃなくて、考えて、獲得した幸せが良かったんだと思う。
それは今でも一緒な気がする。

結果的にそれがチープと思ってた内容と同じでも、考えて得た結果がそうだから、今は全然そう思わないし、私の探してた結果はこうだったんだなぁなんてひと段落している。

多分そこに振り切れたのは卒業制作なんだけど、私は卒業制作で作品という作品を作らなかった。

卒業制作の期間に入るまでは、どんなコンセプトのものを作ろうか、どんなビビッとくるかっこいいものを作ろうか、とか色々考えていたけど、卒業制作が始まってみると、私が作りたいものってなんだ?ってもやもやしながら進めていた。

私は同期のゼミ生達がとてつもなく大事で、尊敬していて、素敵な人だなぁと常々思っているんだけど、卒制をやっていて、そのゼミ生と過ごせる時間が格段に減っていて。
私が作りたいものって、卒業したらそれぞれの道を進むゼミ生との残り少ない大切過ぎる時間を割いてまで作る必要あるっけ?
っていう疑問がズドーンと湧いた。
それだけ私にとってゼミ生との時間は人生において大事で重要なことだった。

作らないって決断をするのは結構勇気が必要だったのか、教授に相談した時は謎にボロボロと涙が出た。

そんなこんなで、作らないという選択をしてゼミ生との時間をつくることにした。
内容はさておき、この卒制での決断は、自分で考えて、考えたことを素直に大切にする、という自分の大きな軸になった。

かっこつけることとか、業績とかじゃなくて、自分が愛おしいと思ったことを後悔しないように大事にすること。

大学4年間で鍛えられたことは、私の場合そういうことだった。
すっごくベーシックで当たり前じゃんのようなことだけど、その当たり前を自分で獲得したと思えてる。

きっとこれからの人生で紆余曲折することもあると思うけど、この軸を大事にしてどんどん太く、ズドーンと構えた人になりたい。

そして考えることは大切にして、これから起きていくたくさんの事に向き合っていきたい。

今の気持ちから卒制を回想してみた、でした。

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