古代、中世の文芸と近現代文学、そしてMeToo的な精神の不可欠さについて

古代や中世の文芸を「文学」と言えるかは一般的に微妙だ。

文学を文学たらしめる要素について、筆者は小中学生レベルの教養だと思っていたものを案外プロも知らないらしいので、小中学生でも理解できそうなレベルで書きます。

まず古代人

古代人の文章は、権力者を礼賛しがちだ。支配・被支配を正当化しがちだ。

発表媒体が限られた時代、権力者の自画自賛で作られがちなせいもあるが。

「天は上に、地は下にあるのが自然!王は天で上、民は地で下!男は天で上、女は地で下!上を上げて下を下げる上下関係の確立こそが天地を安定させ平和の基礎となる正義なのです!上様の支配ありがとうございます!

なんつう思想そのままの文章は、文学じゃないだろう。

注 身分制度は無能による支配を安定させる仕組みだ。支配関係があれば忖度や保身が作用し、正しい情報が上に上がらないから、上は判断を誤る。それでも「上が正しい」と主張するために宗教が使われた。近現代でも人種・民族・階級差別や男尊女卑などに疑似科学が使われる。社会は衰退するが悪政を有能な民に丸投げでき、最終的に庶民の女性に尻拭いさせるので続く。

そして中世の人

中世の人間は自他の区分が曖昧になりがちだった。

「世界は結局あなたの心のなかにあるのであり、あなたの捉え方次第で他人も世界も変わる」
→「つまり支配者の俺が幸福なのは善人だから。お前が俺の暴力を責めるのはお前の心が悪いから」と。


古代人の「偉い人絶対正義」思想共々、むろん嘘っぱちである。


近現代文学は、以下の2条件を満たすことが必須だろう。

文「学」を学問ではなく近代の文芸と考えた場合、以下の2条件を満たすことは必須だろう。

1.権力者礼賛ではないこと。権力の愚行を描けること(描かないにしても)。

2.「あらゆる他人は、自分とは異なる存在だ」という冷徹な事実の認識があること。


古代や中世でもギルガメッシュ叙事詩や源氏物語は両方を満たしている。最古の小説と言われる所以だろう。

また、シェイクスピアの戯曲が世界共通の教養とされる理由でもある。

そしてこれは世界において樋口一葉が近代日本文学の代表とされる理由でもあるだろうし、現代日本の女性作家が海外で盛んに読まれる理由だろう。

1')身分制の一部たる男尊女卑にいぜん依存する社会や産業、文化、個人による搾取への認識。
2')少なからぬ男性側の無自覚さ。いうなれば男性側の自我の未熟さ、すなわち論理的思考力の基本の欠如と、女性側の自我の確立の衝突

という日本の条件下では女性作家の文学は文学と呼びうる条件を満たしやすいし、生きるために戦う世界中の男から共感されるのだ。何より女からも。

反面、

我らが日本では文豪ですら文学と呼びうるか怪しい


男ヲタ受けする創作物も残念ながらかなりそ~だが、特に男性の純文学については、

総じて女性に心の問題も社会問題も丸投げしたまま、自由な精神とやらを追求して勝手に絶望し自殺するがごときで、それこそ中世の仏教徒からただ仏教の救いを差っ引いただけだ。

言い換えると、プロレタリア文学やクリスチャン作家などの例外を除いて通低音は

1'')当時の帝政や男尊女卑の仕組みに無批判で、むしろ積極的に依存し、
2'')さらに自我境界が曖昧で、最終的になんでも女性に丸投げのまま身勝手に死ぬ。

みたいな様式美で「現代に再現された中世思想」な珍奇さこそはあるが2条件のどちらも満たさない。

「権力者の悪」「自他の違い」の2点を踏まえる点では、本邦ではむしろ戦記やクライムノベルなどの方が文学性が高くなる土壌があるんじゃなかろうか。

MeTooを認識できない日本の某男性文学者の文学性の低さ

ちなみに、性犯罪についても、両条件を認識していれば明白である。

1''')男女間には長年の差別によるジェンダーギャップがあるし、同性異性問わず年長者と年少者や文壇などの条件ではさらなる権力が伴うことへの自覚
2'''')他人には各自の自我と尊厳があり、精神も身体も不可侵である。昔の男性が、なぜか他の男女の合意を自分勝手に決め、自分の思い込みで手を出してきたことはただの暴力であるし、性的ならば性暴力である、という自覚

これらが認識できていれば、従来の性犯罪の扱いがどれだけ中世的なのか理解できる。

ゆえに、日本のMeToo運動は将来も日本の男女の尊厳と自我を守った運動として子々孫々語り継がれるだろう。

また、MeTooへの主に一部男性文学者や法曹などのヒステリーは子々孫々、彼らの名前とともに、領主の初夜権なみに物語と嘲笑ののネタとなるに違いない。

「自他の区別すらつかない無能どもが、理性や論理性を自称していたんですね。中世かw」と。


戦後の日本人論で散々言われてきたとおり、そもそも近代的自我が確立していない人が少なくないのだろうが、性犯罪への動向を見るに、自我が発達しているという西洋でも怪しい。

古代ギリシャ・ローマのように市民男性を「高度な活動」に専念させそのインフラとして女性and/or奴隷的な人や植民地人を犠牲にする近代モデルのままでは、男性は自我も発達しにくくヒステリーに脆弱になりがち、ということか。残念ながら。

自他の区分がない以上、同様にべちゃーっと自我の区分がないタダのお気持ちを共有できるお仲間に受ける駄作しか書けないし(それも突き詰めれば名作になるかもしれんが)、強姦の何が問題なのかも理解できないのだろう。