2013/09/26 震災後初めて訪れた大熊町の実家

画像1 福島第一原発から直線で約3〜4kmほどの実家。この家は私が小学2年生の時に母親が苦労して建てた。決して立派とは言いがたい、慎ましい一軒家だった。物心ついた頃、家に父親はいなかった。この頃、念願のお父さんがやってきた。原発内で働く人だった。
画像2 高校を卒業するまでこの家に暮らした。両親と兄2人、そして私が12歳のときに弟が生まれた。
画像3 原発事故後にフル装備で訪れた家は荒れに荒れていた。見たくない気持ちもあったし、見たい気持ちもあった。背中を押したのはサッカー好きな仲間たちで、このキケンな帰省に同行してくれた。
画像4 家の中は外よりも線量が低かった。それでも異常な値を示していた。線量計の数値は、嫌でも現実を突きつけてきた。
画像5 このカレンダーは1月のままだ。ズボラな母親らしい。本数の少ない常磐線大野駅の時刻表を、いつもここで眺めていた。
画像6 1階のリビングは天井が落ちていた。2011年3月から2年、人が住まない家が朽ちるのは思いのほか早い。
画像7 テレビ横にはサイドボードがあったはずなのだが、消えていた。
画像8 2011年3月のまま時が止まってしまった。
画像9 長い間母子家庭だった。母親は子ども3人を育てながら、間取り図を眺めるのが趣味だった。そしてこの家を建てたのだ。
画像10 キッチンの冷蔵庫を開ける勇気がなかった。何が飛び出すか、どんな異臭を放つのか、想像も付かなかった。
画像11 2年経って、中身は至って普通。生活していたそのままの状態だった。
画像12 冷凍庫も腐りきった食品がいっぱいに入っていた。
画像13 この卵を食べたら死ねるな、とか思った。
画像14 2階には2部屋。手前に私の部屋、奥には兄2人の部屋があった。私が東京の大学に進学したのち、部屋は弟が使っていた。
画像15 弟の部屋も荒れに荒れていた。動物の糞が目立った。
画像16 兄たちの部屋。もうこの家に人が住むことはないだろうと悟った。
画像17 ご近所の様子。やはり外は線量が高い。
画像18 側溝など、水の溜まる場所は特に線量が高い。静かな町に線量計のけたたましい音が響くので、そっと離れた。
画像19 ロシア製の線量計は、震災後に購入した。チェルノブイリ事故後、個人でも線量を測定できるように、ロシア製で手頃なものが流通している。一方で日本製の線量計は、どこか信用できない気がして意識的に避けた。
画像20 側溝に近づくと線量計が鳴る。
画像21 警戒区域には一人では立入ができない。必ず同行者が必要なのは「どうせ死ぬなら自分の家で死にたい」という老人がいたりするとか聞いた。他にもいろいろと理由があるのだと思う。とにかく、立入許可を得るには全員の個人情報を事前に提出しなければならない。国の許可なしに帰省はできない。
画像22 家が自然に飲み込まれそうだった。チェルノブイリ付近の町が森になって、動物たちが戻ってきた様子を何かで見た覚えがある。実家付近も自然に返るのだろうか。裏山の杉の木は、私が高校生の頃に植えられたもので、その年の春は杉花粉で毛穴という毛穴から黄色い膿が出るほど重度の花粉症に苦しんだ。それも懐かしい思い出だ。

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