2018/10/23 震災後二度目に訪れた福島県大熊町の実家

画像1 2018年10月、祖父が死んだ。震災後に自衛隊の救助で茨城の病院へ運ばれ、その後は長女が暮らす東京の老人ホームで過ごしていた。祖母とは離れ離れになったまま、某日朝、息を引き取った。お葬式の前日、母親と弟と家に立ち入った。
画像2 私にとっては震災後二度目の帰省、弟は初めて足を踏み入れた。2013年よりも線量はずっと低くなっていたが、緑は増えていた。
画像3 大熊町はあらゆる場所で除染していたけど、わが家はその形跡がなかった。それでも年月と共に、放射線量は低くなっていったようだ。スクリーニング場で防護服をもらったが、防護服といっても不織布でできたもので、汚れたものに触れないようにという目的で着ている。着なくてももう立入は可能のようだ。
画像4 庭の自転車が緑に埋もれていた。
画像5 2011年から7年以上経つと、木造の建物は腐り、壁はカビだらけだ。
画像6 この玄関から小学校、中学校、高校へと通った。このポストにSMAPの香取慎吾くんからのファンレターの返信が届いていたときは、天にも昇るような気分だった。
画像7 玄関の片隅に前回はなかった白い毛だまりがあった。白い動物がこの家に入り込んでいるのだろう。
画像8 不衛生極まりないわが家。土足なのはもちろん、靴カバーをしないと汚れてしまう。
画像9 私が高校生まで使っていた部屋。のちに弟がこの部屋で髪を金髪に染め、酒を飲み、ゲームに明け暮れていた。私が弟を引き取って東京の定時制高校に通わせるまで、弟はここにいた。
画像10 2013年に立ち入った時よりも、動物の糞が目立つ。
画像11 兄の部屋は相変わらずの荒れようだった。
画像12 原発内部で働いていた父親のものだろうか。ヘルメットが転がっている。父親は溶接工だった。真面目に休まず、毎日同じルーティーンで原発に通っては帰宅し、NHKでやっていた「草原の小さな家」を見ていた。小学生だった私はその膝の上に乗るのが好きだった。ただ、機嫌が悪いと凄まじい暴力を振るわれた。暴力の標的は主に母親だったが、その矛先は子どもにも容赦なく向けられた。
画像13 二度目の立ち入りなので、ショックはなかった。ただ、弟は想像以上だったようだ。福島で生まれ育った弟には、この家が残っている間に一度原発事故というものがどういうものなのか、見ておいて欲しかった。それで、弟の立ち入り許可の手続きも私が勝手に済ませていたのだった。
画像14 この階段を動物たちが上り下りしているようだ。ゴキブリや巨大なネズミ、それからイノシシとかイノブタが多く出没しているとアナウンスがあった。
画像15 洗面所。
画像16 家には誰かが出入りしたような痕跡があった。布団がこんなに散らかっているのも変だ。
画像17 キッチンのど真ん中に冷蔵庫が倒れている。2011年の地震でも倒れなかった冷蔵庫だ。人為的に誰かがここへなぎ倒したのだろう。
画像18 1階のリビング天井は、完全に穴が空いていた。
画像19 リビングの床も抜け落ちていた。雨が降り、腐ったのだ。
画像20 2011年3月で止まったカレンダー。
画像21 引き出しの中になにか持ち帰れそうなものがあるかもしれないが、触れる気にもならない。
画像22 あの地震だけでこの状態になるかというほど散らかりまくったキッチン。
画像23 勝手口のガラスが割れていた。
画像24 震災当時、この家にいたのは両親だけだった。兄も私も家を出ていたし、弟は高校生活をやり直すため、私が東京で保護者を買って出て同居していた。その後、高校卒業をきっかけに同居を解消し、弟は2つ隣の町で一人暮らしを始めた。両親は避難所を転々とした後、遂に離婚した。積み重なった暴力が一番の原因だった。
画像25 母親は避難所での暴力に耐えかねて、一時期女性シェルターに身を隠していた。父親は避難所でもこれまでのように、刃物を持って母親を襲った。それはもう暴力ではなく殺人未遂だ。私はそんな両親を見て育ってしまったのだ。母親がシェルターにいるとは知らず、消息を捜すのもだいぶ難航した。離婚と結婚を何度も繰り返し、この人のおかげで私は名字が3回変わった。迷惑なやつだ。
画像26 たとえ帰還困難区域が解除されても、こんな家には住めない。
画像27 次にこの家を訪れるときは、もう建物はないかもしれない。弟にとっては最初で最後の帰省だ。本籍地はここになっているが、郵便物は二度と届かないのだろう。
画像28 ツバメの巣ができていた。動物たちにとっては、震災後の方が過ごしやすい環境なのだろうか。それなら無理に住民を戻そうとせず、森になればいい。
画像29 さようなら、私の家。

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