2018/10/23 大熊町

画像1 大熊町には大野小学校と熊町小学校があって、2つの小学校に通う子どもたちはみんなこの大熊中学校に進学する。私の母校だ。門は閉ざされていた。
画像2 車を置き去りにして逃げたのだろう。震災から7年半経って、校庭が草原に変わっていた。
画像3 中学校への坂道。マラソン大会のラストスパート、きつかった。
画像4 町の様子。
画像5 チャボというお店。ここにいらなくなったレコードや本を持っていくと、委託販売してくれた。モノを売る楽しみを最初に知ったのはここだった。
画像6 立派な石塀も崩れたまま。
画像7 大野駅は福島第一原発から最も近いJRの駅で、この駅は高校の通学で毎日使った。2011年から時が止まったままになっている。
画像8 線量が高いのでレールと枕木を取り除き、表土を剥ぎ、除染をしたのがわかる。すべてが壊れたこの町にまた電車を走らせる意味などあるのだろうかと考えてしまう。
画像9 大野駅前の様子。人が消えた。
画像10 大野駅前の商店街のはずれにあるアトム観光。小さい頃は意識しなかったが、今思えば原子力の町だから「アトム」だったんだなと気づく。アトム寿司とか。私が生まれた頃には既にそこに原発があったので、特別に原子力の町を意識して暮らすことなどなかった。このアトム観光、以前は本屋さんだった。玖保キリコの漫画を初めて買ったのもこのお店だった。
画像11 遠くに動物の姿が見える。
画像12 うりぼうだ。こっちに来る。
画像13 震災後、この町で育ったイノシシが生んだのだろう。食べるものはあるのだろうか。本当はいけないのだろうけど、助手席の母親が持っていたおにぎりを与えたら食いついていた。
画像14 うりぼうはいつまでも車を追いかけてきた。町の人に見つかったら捕獲されてしまうのだろうか。
画像15 震災から7年半でこうも変わってしまうものかと言葉を失う。
画像16 隣の富岡町と大きな違いがあるとすれば、どの建物からも戻る意志が見られないということだ。富岡や楢葉は、戻る意志がある家は手入れされている。
画像17 大野駅前の一番にぎやかな通りだとは思えない荒れ果てた家々。
画像18 制服を買った呉服店も、大判焼きを買ったお店も、全部一瞬にして消えた。
画像19 線量計は町の至る所に設置されている。震災後は、この数値が実際の線量より低く表示されていると噂されたが、ロシア製の線量計と大差はなかった。所詮、噂だ。
画像20 大野駅から山の方、大川原地区に新しい町役場ができた。新しい住宅もできて、避難先の会津若松から町に多くの人たちが戻って住んでいる。その町に足を運んだときに、申し訳ないがモルモットみたいだなと思った。
画像21 実家のそばにある双葉病院。震災当時、大きな問題になった病院だ。患者を残して職員が逃げたとか、野ざらしにされたベッドの写真なんかも記憶に残っている。
画像22 弟が通った幼稚園。原発から2kmほどだろうか。さすがに放射線量が高くて長居はしなかった。
画像23 幼稚園の中をのぞくと、牛乳瓶の入ったケースがそのままになっていた。給食のあと、地震があったのだろう。
画像24 幼稚園の庭もだいぶ緑に飲み込まれていた。
画像25 6号線沿い、小学校の通学路。ここはもう原発作業に携わる車ばかりになった。いわき方面と仙台方面を突っ切ることはできるが、二輪車は通行不可。車も窓を閉めて走行しなければならない。そして、右折左折をするには国の立入許可が必要になる。これで「復興しました、みなさん大熊町に戻ってきてください」とよく言えるなと思う。

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