2013/04/12 楢葉町と木戸駅周辺

画像1 常磐線「木戸駅」はしばらくベニヤで封鎖され、ポストもグルグル巻きにされていた。時間が経ち、今では電車が走っている。
画像2 駅から海の方を見ると、まだ少し瓦礫が残っている。瓦礫と一言で言ってしまうのは、あまりに残酷だ。のどかな田んぼも津波で全部ダメになってしまった。
画像3 祖母の隣の家には牛舎があった。12歳年下の弟を背負って「モー見に行こう」とよくこの柵から中をのぞき込んだりしていた。
画像4 原発が爆発したあと、屋内退避だった地域も次第に避難勧告が出て、20km圏内から人が消えた。警戒区域になってからは、厳しい検問があって自宅には帰れない。それでも、裏道をかいくぐって牛にエサをやりに来ていた話を聞いた。
画像5 人も牛はいなくなった。今では建物さえなくなった。
画像6 2005/04/07の写真を見つけた。祖母の80歳の誕生日。隣の家からニワトリの元気な声が響いていた。
画像7 これも2005/04/07の写真。この6年後にすべてが消えてしまうなんて誰が想像しただろうか。
画像8 木戸駅へと続く線路。この先は東京だ。みんな今日もキラキラ電気の下で暮らしているかい。
画像9 この線路の先は福島第二原発のある富岡、そして第一原発のある大熊へと続く。
画像10 放射性物質を含むゴミ。この黒い袋が山積みになると、異様な空気が漂う。そこへグリーンの巨大な布を被せて「きれいを装う」様子に腹が立った。なんの解決にもならない。
画像11 祖母の酒屋でも仕入れていた馴染みの納豆屋さん。
画像12 天神岬公園にある北野天満宮。
画像13 震災直後に訪れたときは、背丈ほどの草で覆われていた。2年経ってだいぶきれいになっていた。
画像14 地震で崩れた鳥居が横たわっている。
画像15 無残に崩れた鳥居。
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画像18 天神岬公園内のテニスコートにもゴミが増えていった。
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