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「3.11」とわたし Vol.10 「ないものねだり」から「あるもの探し」

飯舘村村議会議員/株式会社SKブラスト代表 佐藤 健太 さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年


今日の主人公は、飯舘村で金属ブラスト加工を行う創業30年の会社2代目兼
村の若手村議会議員、佐藤 健太(さとう けんた)さん。

佐藤さんはこの10年間、メディアやSNSを使い、
飯舘村の事を発信し続けてきました。

震災当時29歳、「今と未来の飯舘村」に必要な事を考え、行動してきた佐藤さん。
当時の彼が考え、実践した事。
10年の中で感じた事、変化した事、その中にあった想いと人生。

「復興」ってなんなのか、ただ元の村に戻る事なのか、
村の若者から担い手へ、10年の中でたどり着いた今の答えとは。

あれから10年

かつて日本で最も美しい村と言われた、人口6400人余りの福島県の浜通り、阿武隈高地の中腹に位置する山村、飯舘村。
江戸時代は相馬中村藩の領土で「山中郷」と呼ばれ、昭和39年に旧大舘村と旧飯曽村が合併され、飯舘村となった。

先人が厳しい気候と生活環境の中で、開拓をして切り開きコツコツと作り上げて来た村で、多くの飢饉に見舞われながらも、木を切り、石を運び、田畑を作り、地域みんなで助け合い、所得は低くても、開拓をして切り開きコツコツと作り上げて来た村で、山菜やキノコなど自然の恵みを上手に活かし知恵を絞り、豊かな食生活を作り上げて来ていた、そんな村を地震と原発事故による放射能汚染が突然襲ったあの日。

ライフラインが止まり、スーパーやコンビニから商品が消え、貨幣価値を一時的に失い、ガソリンも手に入らず、避難と分断の中で線量計の警告音がけたたましく響く、あの日から、早いもので10年という月日が流れようとしている。
私たちは、この10年で何を学び、活かしてこれただろうか。

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飯舘村前田地区にあるSKブラストの工場


このまま日本が沈んでしまう

10年前のあの日、飯舘村の実家の会社の工場で作業をしていました。
地震の時は、揺れの中、認知症で自宅にいた祖母が心配で必死に自宅に向かい走り、家屋が倒壊するのではないかと思うほど激しく軋む自宅から、祖母を外に連れ出し揺れがおさまるのを待ちました。
同時に外は大粒の吹雪になった事を覚えています。

その後、消防団という事もあり、火災や倒壊が心配だったので、すぐに消防ポンプ車の鍵を持って、車のラジオで状況を聴きながら、地区の見回りに出ました。
幸い家屋の倒壊や火災は無かったものの、停電していたのでテレビからの情報は無く、余震が頻繁に来る中、ラジオからの津波の被害の状況を聞き、浜の友人達は大丈夫だろうか?このまま日本が沈んでしまうのではないかと、ざわざわした気持ちで、その日は車の中で過ごしたことを覚えています。

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テトラポットの型枠を取り扱っている

「あいつは、ただ目立ちたいだけだ」

震災当時29歳、髪は茶髪、世の中のことなどさほど知らないただの輩。
それが一変、原発事故による放射能汚染が村を襲い、なんとも言い難い恐怖と憤りと疑問の中で、必死に情報を手繰り寄せ、当時29歳の持てる手段全てで世の中に現状を発信し続けた。
どんな形であれ『飯舘村』という名前を世の中に発し続ける。
決して風化させないという思いで走り続けた。

時には、「あいつは、ただ目立ちたいだけだ」や、自費を投じていても逆に「メディアに出て震災を使って金儲けしてる」などと批判する人もいて、鬱になって動けなくなった時もあった。
それでも、国内外においての『飯舘村』の知名度や認知度を引き上げておく事が、後々復興の過程の中で効いてくる時がくると思って続けてきた。

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飯舘村前田地区の広大な地形で取り組んでいる漆畑


「ないものねだり」から「あるもの探し」

震災から5年が過ぎた頃、それだけではダメだと思うようになっていった。
それは、避難後に広島、長崎、水俣を初め、チェルノブイリ、マーシャル諸島、アイルランドなど、さまざまな紛争や被害を受けた地域をめぐって感じたことだ。
中でも、とりわけ原発事故に近い構図だったのが水俣だった。

それまでは教科書でしか見た事がない程度だった水俣病だが、その歴史や背景、そこからの歩みを実際に現地に行って学んだことで、私にとってまさに自分ごとになった。

そして、この水俣で出会った吉本哲郎氏が提唱した『地元学』から、
「ないものねだり」から「あるもの探し」という考えを学んだ。
実はこれは、学べば学ぶほど、震災前の飯舘村が取り組んできた事、そのものだった。

こうして5年目以降は、父の体調もよくなかった事もあり、村内で家業の立て直しをしていく事も「あるもの探し」。
まずは足元からと思い、そこまで外に発信を続けてきた事や様々な活動に一つの区切りをつけて、より地域に根ざしたところにもう一度根を下ろし、あるもの探しを始めた。


議員になったのは、復興に向かっていく中で「ないものねだり」ばかりではなく、もっと人も物も「あるもの探し」をして、この村は「自分たちで復興させて来たんだ!」という誇りを取り戻していく事が大事だと思ったからだった。
3年半前に『若い力で活気ある住民参加型の村づくりを!!』を掲げ立ち上がり、活動を続けきて、昨年、若いリーダーへと行政のバトンが繋がれた。

ここからはさらに私たち世代が様々な提案をし、みんなが自分たちの手でこの村を構築していく実感を感じられるよう、導いていければと思っている。

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『復興』という都合のいい言葉

時に、今、飯舘村はどうですか?と聞かれます。
私は、文明の進化が止まった状態で30年40年の時代が飛んでしまった様な状態だと答えます。
つまり、今の飯舘村は、全国の地方が抱える過疎化・少子高齢化の将来のモデルの様な地域になっているとも言えます。
日本の人口ピラミッドが逆三角形になっていく中で、今まさに、ここで課題を洗い出し、これらの課題にどう取り組むかが、過疎化・少子高齢化の地域がどう生き残っていくのかというヒントになると思っています。

時間で言えば10年という節目ですが、私は現在進行形で、通過点だと思っています。
復興も長期戦に入った中、まだまだ手探りですが、ここまでの10年で蒔いた種や経験が、これからの10年で、様々な形で芽が出て育ってくれると信じています。

この先10年後はどうなったか、という事も大事ですが、何をしてきたかも大切になると思います。

震災後、私はずっと『復興』という都合のいい言葉をどう消化しようか考えてきました。
そして今は『復興』とは
『そこに住む者達が誇りを持って暮らせるようになること。』
という事に自分の中でたどり着くことができました。

これからの10年もまた、この都合のいい言葉と向き合いながら、様々にチャレンジし、自分ができることを精一杯やって行こうと思います。

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テトラポットの型枠と前田地区


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