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「3.11」 と わたし Vol.21 震災から9年、私の「震災」が始まった

東大むら塾 樺山菜々さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年

今日の主人公は、東大むら塾 樺山菜々(かばやま なな)さん。

樺山さんは現在大学一年生。
コロナ禍の中、一年前に東大に入学し、むら塾をサークルに選びます。

9年の月日が経ち、少しずつ世間から「震災」が風化していく中、
飯舘村に出会ったその日から彼女の「震災」は始まりました。

「知らない」から「知っている」へ歩み始めた大学生の今、思う事。

「あの日」×わたし

「あの日」の私は10歳、小学4年生でした。
終業式シーズンだったからでしょうか。
その日は早帰りで、帰宅すると母がリビングでニュースを見ていました。
ちょうど、同じ国のずっと北のどこかのまちを、
大きな大きな津波が襲う瞬間が、中継されていました。

「今、第二波が...」

すでに滅茶苦茶なまちに向かっていく津波を、ヘリから見送るリポーターの叫ぶ声。
子供ながらに「何か大変なことが起きている」と察していたのでしょうか。
目が離せずに、ランドセルを背負ったまま、テレビの前に座ったことを覚えています。

そのうち、津波に続いて原発事故についての報道もなされるようになりました。
当たり前ですが、放射能は目に見えません。

轟音で、目に見える形で、たった一瞬で人々の生活を壊した津波。
無音で、気付かぬうちに、時間をかけて人々の生活を蝕む放射能。

子供にしてみれば前者が分かりやすい被害でした。
恥ずかしながら、原発事故の被害を受けた人々に思いを馳せた記憶はあまりありません。

それから長い間、テレビからは賑やかなCMが消え、
ACジャパンのCMだけが、うんざりするほど繰り返し、流れ続けました。

当時を振り返って驚くのは、そのCMの印象が一番強いことです。
それが、私の体験の乏しさを如実に物語っているように思います。

わたし×東大むら塾×飯舘村

それから震災と何の関わりもない9年が立ち、私は大学生になりました。
この時初めて、私の「震災」がスタートすることになります。

私は今、東大むら塾の一員として活動しています。
千葉県富津市を主な拠点に、「農業×地域おこし」を掲げるサークルです。

「都会疲れちゃいそうだな、土いじりしたいな...」

という、軽い気持ちでの入会でした。

そんな中、私はむら塾が福島県飯舘村での活動を行っていることを知ります。

飯舘村? — 東北。地震。原発。

...それ以上、何も知らない。
改めて考えてみて、自分の知識の乏しさに驚きました。

「わたし、このまま、何も知らないままで生きていっていいの?」

ふと湧いた疑問を胸に、私は飯舘村を訪れることを決めました。

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初めて訪れた飯舘村には、色々な意味で驚かされました。

  話に聞いていた通り、だだっぴろくて、何もないこと。
  あちこちにフレコンバッグ(汚染土壌)が積まれたままであること。
  人が戻らず、空き家となった家屋。
  田舎のイメージと裏腹に、立派すぎる程、大きくて綺麗な公共施設。
  帰宅困難地域への進入を制限するゲートと作業員。

本来共存し得ない要素がそこには集まっていました。
異質な空間でした。

現在の飯舘村が抱える課題が、被災地特有ではないと気付いたことも驚きでした。
その最たるものが、少子高齢化と過疎化。
震災が引き金で時計の針が進んでしまっただけで、
それはいつか日本全国の地方都市が直面する課題でした。

そして、私が一番惹かれたもの。
それは、飯舘村に関わる方々です。

きっとここは、人の勢いや活力だけはどこの地域にも負けないのだろう、
そう感じさせられました。

長きに渡り村での暮らしが制限されてきた中、
敢えて帰村した人、
敢えて移住してきた人、
敢えて関わりを持とうとする人。

ゆるやかに過疎化が進む他の地域と違い、
一人一人に確固たる目的や哲学があるのを感じるのです。
それが飯舘村の強み、凄さであり、魅力なのでしょう。

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わたし×陸前高田×これから

新型コロナウイルスの影響で飯舘村への訪問・活動が制限される中、
せっかく手にした被災地との繋がりを保っておきたいと、私はインターン先を探していました。

ご縁があって私を受け入れてくださったのは、
岩手県陸前高田市で移住定住促進事業に取り組む、
特定非営利活動法人高田暮舎の皆さん。

陸前高田にはまだまだアパートが少なく、外からの人間を受け入れる余力がありません。
そこで高田暮舎では、主に移住者に向け、
市内の空き家を利活用してもらうための活動を行っています。

津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田には、震災前から存在する建物は限られています。
だからこそ、ただの不動産としてではなく、そこに暮らした人々の痕跡や、思いに寄り添っていく。
そんな素敵な団体です。

オンラインのみでの活動や経験に限界を感じることもあります。
ですが、現地で動く以外にも、自分なりの震災との向き合い方は見つけられるのだと再認識することができました。

メディアで東日本大震災が取り上げられるのも、今では3月11日前後だけになりました。
ゆっくりと、でも確実に、世間の人々の中で震災が風化していくのを感じます。

東日本大震災が招いた被害、人々に残した傷を忘れてしまうことがあってはなりません。

知っている人は忘れてはいけない。
知らない人は知らなければならない。

自身が「知らない人」だったからこそ、強くそう思います。

...ですが、いつか、良い意味で
「被災地」「復興」という言葉が使われなくなる日が訪れたら、
そんなに素敵なことはないのではないでしょうか。

皆さんにとっては11年目、私にとっては2年目の震災。

いつかその日が来ることを願いながら、
これからも自分なりの関わり方を模索していきます。

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関連リンク

↑高田暮舎が運営する移住定住ポータルサイト「高田暮らし」。高田での生活を覗くことができます。

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