小田香『セノーテ』短評

 数え間違えでなければ、『セノーテ』(小田香、2020年)には25人の肖像が登場する。肖像というのは8mmカメラで撮影された人の顔のクロースアップだ。この映画の撮影地に暮らすメキシコ人たちの顔なのだろう。若い娘の、老人の、男の、女の、中年の顔。文字通り老若男女が揃っている。前後のショットでその人の職業が養蜂家だとか漁師だとかわかるものもある。これらはすべて映像だ。これらが肖像「写真」や肖像「画」であった可能性は考えられないだろうか。そのほうがよかったかもしれないと。作り手はなぜ、こんな方法を選んだのだろう。
 彼ら彼女らの肖像が静止画であったかもしれない可能性はないだろうか。なぜそれらは動画なのだろう。もちろんそれには、これが映画だから、という回答が一番妥当なのだろう。いや、本当にそうだろうか。映画であることを本当に優先できるだろうか。本作が「セノーテ」という泉とそこで暮らす人々を写したり、描いたりした写真集や画集、またはその展示会であった可能性はなかっただろうか。しかし、それでも本作は映画として完成した。この作品の大前提をひっくり返すようだが、まずはこうして問うてみたい。それはいったいなぜなのだろう。

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 『セノーテ』は、別に人の顔がテーマの映画ではない。「セノーテ」とはメキシコのユカタン半島北部に散らばる、巨大隕石でできたいくつもの泉の総称だ。それはかつて、周辺に川や湖がないマヤ人にとって唯一の水源だった。本作は水中鍾乳洞のようになった水中を遊泳するデジタルカメラで撮影された映像と、8mmカメラで撮られた周辺の集落の生活というシークエンスを交互が入れ替わることで構成されている。潜水映像には、マヤ神話に登場する双子の英雄が冥界で探検したり試練をかいくぐったりした話や、地元の住民の昔語りとして登場する水の中で亡くなったり行方不明になったりした人の話がボイスオーバーで重ねられる。8mm映像のほうには人骨を浄める埋葬習慣や元は植民者のものだったらしき闘牛の風習、カーニバルのダンスパーティーや家畜の屠殺といった、現地のものと数百年前にやってきた欧州人のものとが混じったらしい現在の地元の生活が登場する。
そう、『セノーテ』とはこんな感じの映画だ。例えばそういうふうにこの映画を説明できるかもしれない。しかし実際は、これでは本作がどんな映画かということが本当はなにも示せていない。こうして眼に映るものを言葉に変えて語ってしまっては本作の鑑賞体験のほとんどの美質がこぼれ落ちてしまう。そう言っても過言ではない。『セノーテ』はどんな映画か。いや、どんな鑑賞体験か。別の言葉で語ってみよう。
 開巻間もなく、観客は画面の中にうごめく抽象模様に度肝を抜かれる。これが「メキシコの泉」に関する映画だと知らされていなければなんのことかわからないはずだ。真っ暗闇とも、拡大された青白い混色の絵の具の染みともおぼつかない平面に、白い埃の粒のようなまだらが泡立ち、今度は神々しい光のまっすぐな筋に覆われる。遠くから人の声のようなものがノイズとなって聞こえてくる。カットの切り替わりのようなものがあって、カメラが水中から上がったようで、岩肌に囲まれた水面のような場所が現れ、今度は遠くから獣の唸り声が聞こえる。いったいなにを見せられているのだろう…。
 今度はどうだろうか。「セノーテ」という体験の一端が伝わるかもしれない。それともむしろこれでは余計になんのことだかよくわからないだろうか。では、なぜ前者では行けないのか。例えば前者のように、「セノーテ」とはいつ・どこで・なにをテーマに撮られた作品かきちんと「説明」することにこだわるのなら、テレビドキュメンタリー風の現地と土地にまつわる神話を扱った映像作品に仕上げることもできただろう。またはもう少しその社会背景に踏み込んで、現地に暮らす人たちのインタビューの集積のようにして「人」のテーマをフォーカスしたいわゆるかつての「ダイレクトシネマ」のようなドキュメンタリーとなることもあったかもしれない。しかし、そうはなっていない。堂々巡りで最初の問いにまた戻るのだが、ではこれはどんな映画だろう。
一つ言えるのは、ここでは言葉によって秩序立った物語が説明されることをおそらくあえて避けている。「セノーテ」とは一つの感覚的体験の集積だ。「感覚の集積」とはなにか。例えばちょうど音楽のように、言語でないものによって構成された感覚のパターンと言えるかもしれない。しかし、結局それは音だけでできたものでも、和声やリズムといった体系にしたがって整理されたものでもないから結局音楽でもない。それで、視覚的には抽象絵画のようななにかかというと、実写映画なのでもう一方でとても具体的なものを撮影したドキュメンタリーである。この「感覚の集積」を説明できるなにかはないか。そこで行き詰まるほどに私たちは、まだ知らない体験を説明する言葉が貧しい。

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 言葉にできない感覚をなんとか説明することはできないだろうか。美術研究者平倉圭は、そういった意味やメッセージの明確ではない複雑な記号の集積らしき芸術作品―絵画から映画、写真、ダンスなど―を評した論集「かたちは思考する」(2019年、東京大学出版会)の序章で、ここに集めた作品について評した自身の分析手法を「抱握」、「モワレ」、「巻き込み」、「大地語」、「模倣」といったキーワードでパラフレーズしている。
 平倉のテーマの一つは人の「思考」とはなにかということにある。まずフランシス・ベイコンについて論じたアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの試論を根拠に、人間のように意識を持つもの以外にも知覚が存在し、物体が持つ知覚をそれぞれに受け取る知覚の集合(「抱握」)があるとする。続いて、一見まったく関係ないと思われる複数のものに独自のパターン(「モワレ」)を見出してしまう傾向と、カラヴァッジョの<メデューサ>の例を挙げ恐怖におののく人の肖像を見たものにその恐怖の感情がうつってしまうのと同じように、ある形象の局所を眺めたときにその眺めが鑑賞者に働きかけ、たとえば同じように表情を歪めるといったふうにそのパターンに取り込まれてしまう(「巻き込み」)事象を参照する。それから、洞窟の中の模様のような自然が偶然作り出したはずの「形象」を、まるで文字であるかのように錯覚し、そこに意味を見出してしまうオカルト性(大地語)を指摘。そして物と心とがそれぞれに読むことを通じて記号と関係を結ぶまでに、いかに両者の境目があいまいかになるかを確認する。最後にそのような明確になにかの「記号」と判別の難しい「かたち」であるものを、一度には見渡すことのできない複数のアスペクトを持つパターンの集合として記述し直すこと(模倣)で感覚の集合で感覚の集合体が人の意識下にできあがるプロセスを捉えようとする。
 この方法論のいくつかを借用して、『セノーテ』について記述することはできないだろうか。本作と平倉の理論が最も接近するのは「大地語」の項目だろう。平倉は「大地語」について、エドガー・アラン・ポーの短編「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語(1838年)」を具体例に上げている。これは、孤島の洞窟で壁に書かれた謎の模様に出会ったピムが、島から脱出すると南極大陸で謎の死を遂げる寓話と、洞窟の模様が実は言語で、ピムたちの非業の死を予言していたという注釈がセットになった怪奇小説だ。それは意味を持つ文字のない世界に、最初の文字らしきものが出現する物語だ。人間の側が勝手に神話を妄想するオカルト的な想像力が、文字という狂信的な実態を初めてこの世に生み出すことの寓話だ。
 『セノーテ』の泉の底をめぐる潜水シーンでは、前後左右の位置関係は正面を映したカメラの視点でしかわからないが情報から光が差し込み、目の前に大きな岩が立ちはだかり、その大きな影が楕円を描き、自然が作り出した小さな水路のようなものが現れて、カメラを持っているはずのダイバーの光の方にむかう前進や、岩の縁をそう迂回の動きに鑑賞者も同期させられる。これはどんな映画なのかと思うとき、私たちはまず体験としてその水の中の視界と運動に同期するが、目の前の景色が作り出す光と陰に、水に浮かぶ粒子や、影絵のように遠近感のない魚の影に、ザラザラとした表面をむき出し水に削られてくびれた岩の柱にその場所特有の形を見出して、なにかの形を、模様を、あるいはダイバーの動きが作り出す線を読み取ろうとさせられる。「かたち」ということに注目してみると、本作には地図や航空写真のようなものは登場しない。俯瞰図として全体像を捉えた模様としてこれらの「かたち」が読まれることもまた、ここでは抑圧されているのだ。
 こうした水の中を動き回る映像にそこで命を落とした地元住民の噂や、マヤ神話に登場する冥界の探検をボイスオーバーで語られる。確かにそこにはポーの小説のように、岩肌に刻まれた模様になにかのメッセージ、なにかの痕跡を読み取ろうとさせるものがある。しかし、ボイスオーバーで語られる物語もまた断片的でとりとめがない。つまりこれは「マヤ神話」を語るための物語ではない。話を完成させたり完結させたりするためのものではなく、この自然の景色、体験のなかから意識の中に意味らしきものが浮かび上がってくることが期待されている。つまり本作は、語ることではなく語りが生まれることへの期待こそを標的としているのだ。それは平倉が、言葉の外で特定しようとしている「思考」の形式にとても近いものではないだろうか。ではもう少し問いを限定してみよう。『セノーテ』という映画が標的にしているのは、誰の「思考」だろうか。
 
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 平倉の分析対象にはもちろん映画も登場する。『かたちは思考する』ではドゥルーズの「シネマ2 時間イメージ」における「回想(souvenir)」の概念が分析されている。ドゥルーズは第二次世界大戦以降のイタリア・ネオレアリスモに代表される「現代映画」の特徴を分析しながら、人が自分の理解の限界を超えた光景を目の当たりにしたとき、いかなる反応もできなくなり「純粋に光学的・音声的な状況」が立ち現れるとしている。そこでは、人はまったく理解できない状況に直面したとき、目の前にあるものがなになのかわからないので、それが何であるのか「思い出す」ことに失敗するとされている。
例えば犬を知っている人が動物の犬を見て、それが犬というよく知った生き物だと特定するということがあるとして、その人がなんだかよくわからない動物を見つけると、なんだかよくわからないまま自分の知っているものの範囲で意味を与えようとして失敗し続けるといった状況をイメージしてみよう。こうして、特定できない何かの前で、それが何か思い出すことに失敗し、不特定のなにかを思い出すことへと横滑りしていく。これが「回想のたががはずれる」という状態だとされている。
ドゥルーズはイタリアの「現代映画」に続いて、「たがのはずれた回想(純粋回想)」となった映画を例示しているが、ここに出てくる具体例はオーソン・ウェルズ、アラン・レネ、アラン・ロブ=グリエといった虚構性の強い幻想趣味のフィクションでとても小田香のドキュメンタリーとは似ても似つかない。どんな映画か見ておくと、「たがのはずれた回想」とは例えば『プロビデンス』(アラン・レネ監督、1977年)のように、アルコール中毒の老作家がフットボール場を射殺場、人間を狼として勘違いする幻覚を見てしまう、といったものなのだ。ここで取り上げるべき映画にはとても思えない。もし仮に、この狂気の妄想世界が『セノーテ』と関係があるとすれば、それは劇中で音声としてだけ登場し、一度も描かれないマヤ神話の世界だろう。そこには冥界を旅する双子たちの試練や、泉から飛び立つ竜といった幻想奇譚そのもののイメージが現れる。
 ドゥルーズの「時間イメージ」の議論と、『セノーテ』の特徴を今一度整理し直そう。例えば、『セノーテ』というドキュメンタリーに登場する映像は、「純粋に光学的・音声的な状況」と呼べるだろうか。冒頭に広がるそれがメキシコとも、水中のものともつかない、光と影でできた抽象模様についてはそのように言っても良い十分な余地がありそうだ。
では、マヤ神話のような幻想を古代の人が想像したということは考えられないだろうか。あるいはそれと同じようにまた別のやり方で、現代の地元の住人が不気味な失踪事件や、不審な知人の死をそれに関連づけることもあるかもしれない。そしてまた別のやり方で、日本人の観光客がこの「純粋に光学的・音声的な状況」を目の当たりにしたら、その人の体験や記憶に従ってまた別のほうへと、同じやり方でその人特有の妄想世界へと「回想のたががはずれて」いくだろう。しかし、本作の水や光の表現から完全に自由な独自の解釈が鑑賞者に許されているとは言い語り。この映画を見る最中は、構成が示唆するようにマヤ神話と、地元の泉の噂、そして現地の生活への緩やかな「思考」が誘導されている。
 議論をまとめよう。言葉で説明可能な語りであることを避け、一見「純粋に光学的・音声的な状況」を提示しているようだが、そこから説明できない衝撃とまったく自由な妄想・連想が観客に許されているのではなく、説明されないままにマヤ神話と地元噂への妄想・連想が誘導されている。なぜこのような作りをしているのか。これには別の問いを用いて答えよう。小田香が本作において、平倉が「思考」と呼ぶものらしきなにかを標的にしているとすれば、それは現地で暮らす、暮らした人たちの思考ではないだろうか。つまり小田は、「セノーテ」という自然の泉そのものでも、そこで語られている神話のプロットでもなく、なくそこにいる/いた人々が、初めて神話(噂話)を妄想した瞬間、「思考」の発生の場に立ち会おうとしているのではないか。そうであれば、あの泉の中に広がる抽象模様がなぜあれほど執拗に映されるのか、合点が行くはずだ。本作は、偶然できたその模様を初めて文字として読んだ狂気の体験に立ち会おうとする驚くべきドキュメンタリーだと今ならわかるからだ。

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 最初の問いに戻ろう。なぜ本作は、地元の住人の肖像を静止画ではなく動画で撮ったのだろうか。これには別の問題をヒントに考えてみよう。なぜ潜水映像に重ねられるボイスオーバーは神話の話と現代の話を交互に入り乱れて語るのだろうか。それは本作がおそらくこの、古い話と新しい話とを「古い/新しい」と区別していないからではないだろうか。つまりこの映画の「語り」にはきっと、年代記のような意味での時間が存在しないのだ。小田はこの「セノーテ」という場所で、そこに暮らした人々が思考し、語ったかもしれない、神話の誕生に立ち会おうとしていると先述した。そしてそれは大昔にマヤ人が語った神話だけでなく、今も「セノーテ」の周りに暮らす人がいる以上、現在進行形でそこで狂気の妄想として神話が生み出されているとして、本作を撮ったのではないか。人間のコントロールできない自然―この「セノーテ」に隣接して暮らす人間たちは、その読むことができない世界の境目で、今も狂気の読解を繰り広げている。神話の生成は、今も続いている。だからその生成者たちは、死体のように冷たく固まった静止画ではなく、静かに脈打つ温かい生身の肉体として記録されねばなかったのではないか。だから本作は映画として完成されなければならなかった。神話の生成はまだ「止まっ」ていない。回想のたがはこの今もまさに、はずれ続けているのだから。


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