『アステロイド・シティ』、『バービー』

 2023年には感染症と隔離をテーマにした二本の映画でマーゴット・ロビーという女優が印象的な役を演じたというささやかなメモを残しておきたい。

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 一本目は、ウェス・アンダーソンの『アステロイド・シティ』である。1955年、宇宙人到来事件をきっかけに世界から隔離された荒野の小さな街アステロイド・シティの群像を描く劇中舞台劇と、これを完成させようとする劇作家と俳優たちの紆余曲折を描く二段階構成のメタフィクションである本作において、かの女優はまず隔離騒動に巻き込まれた家族(父、息子、三人の娘・舅)の事故死した母のピンナップ写真としてだけ登場する。詳しいあらすじを省いて、女優の瑞々しい生命力が惜しみなく湧き出るシークエンスまでの段取りに絞って述べるなら、カラーの劇中劇では故人の写真でしかなかった彼女は、白黒の劇作家パートで「出番をカットされて別の芝居に出ることになった女優」としてマリー・アントワネットを彷彿とさせる時代錯誤のコスチュームに身を包み、袖にはけてきた者同士として別々の舞台裏で楽屋のバルコニーごしに今さっき『アステロイド・シティ』の舞台からはけてきたジェイソン・シュワルツマン演じるかの父親、つまりこの劇中劇における彼女の夫の目前に、その生身の肉体を初めて見せる。ここでなにか倒錯的な、つまり映画にとって倒錯的な感動を覚えた。

亡くなったはずのあの人があの頃の姿のまま目の前に現れるーー
ゴダールにしろ、小津安二郎にしろ、もはやそんな固有名詞にとらわれることがなくとも、映画で俳優と出会うことの幽霊めいた喜びは長らくそのようなものであったはずだ。つまり、映像表現とは相手が大昔の人であろうと故人であろうと、ありし日のままの過去の姿で見るもので、その幽霊めいた再来の感動と不気味さのための技術、「まるで生きているかのような」のための技術であったはずだった。それがいまやどうだろう。『アステロイド・シティ』では、正反対に劇中劇で死んでいることになっていた俳優が劇の外に現れる時まるでよく似たしかし全く異なる再来の感動をもたらす。ここでのかの女優の魅力は「まるで死んでいたかのようである」からこそ真逆に感動的になってしまうのだ。映画として倒錯的なこのシーンの魅力とは一体なんだろう。 

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 もう一本の映画。グレタ・ガーウィグの『バービー』を見終わった後に抱いた大きな疑問、それもなんとなく納得してしまいあまり追及すべきとも思われない、しかしささやかでは決してない疑問というのがあるとすればそれは「なぜ女尊男卑が、現実世界のほうに蔓延しないのか」ということだ。
 まるで麻疹のように、いや劇中でそう述べられるとおり「インディアンたちを襲った天然痘」のように男尊女卑は、ケンが現実世界から持ち帰るやいなやバービーランドに蔓延してしまう。一部の人間の空想によって作り出された理想化された女の子の人形バービーたちとそのアクセサリが暮らすバービーランドはこの思想汚染になすすべもない。では、同じことが男尊女卑の現実世界でも起きるかというと決してそのようなことはない。バービーランドという空想の世界と現実はなぜ非対称なのだろう。
 答えはそう難しいことではない。文字通り創造主として登場するルース・ハンドラー役の夫人の言葉を借りるなら、「バービーも男尊女卑も厳しい現実を生き抜くために人間が作り出したものである」のだという。つまり、より厳しい環境にさらされて変化を強いられてきた現実社会(というか現代社会)にはたった一つの思想の流入によって社会が大きく変わってしまうことのないような免疫が蓄えられてきていたということなのだろう。
 たとえば、そういった意味においてこの『バービー』という一つの映画、一つの寓話、一つのギャグはただの一度も現実の社会問題を直接クリティカルに撃ち抜くということは決して成し遂げていないように思われる。一度は男尊女卑に目覚めたケンたちに反撃を企てるバービーたちの目論みとは、記号的な表象としての女性像をそのまま逆手に利用して反撃を企てるあまり、どこまで記号的な反撃に終始する。このどこまでもピュアでプリミティブな寓話の世界で行われるそれらが、あたりまえだがどこまでもリアルでないのだ。
 だからと言って本作が魅力のない映画かというと決してそうではない。麻疹のような思想汚染が、単なる比喩としての病として記号的な脅威を発揮するにとどまらず肉体を脅かす病魔となる瞬間は大変魅力的だ。ケンたちの末路について述べねばならない。バービーたちの策略に嵌り革命を頓挫させて内紛に陥るケンたちは、奇しくも「女たちを巡って内紛する男たちの戦争」として自滅していく。「男たちの自滅」こそ本作で最も魅力的なシークエンスだ。追い詰められた男たちはトロイ戦争のレリーフ風のポーズと、80年代のダサいエアロビクス風のパフォーマンスで馬鹿馬鹿しさ全開に肉体を浪費され使い捨てられていく。この最も冗長で贅沢なパートを「感染」のモチーフにおける「病」的な狂乱に他ならない。劇内のルールに従えばプラスチック製の不死の人形であるケンたちの戦いは決して死者を出す血みどろの争いにはならず祝祭めいた陽気さで繰り広げられるが、観客からすればそれこそ生身の俳優が演ることだから愉快である(ただの動き始めた人形のフェミニズムの物語ならピクサーにでも作らせておけばいい)。

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 『アステロイド・シティ』はなぜ親しい人を「まるで死んでいるかのよう」に描かねばならなかったのか。思い当たるとすれば、これが「隔離」をテーマにした映画であることだ。生きている人間をもう会えないからといって、遠くに離れているからといって「まるで死んでいるかのように」懐かしむことの陶酔と身勝手さこそを本作が描いているのではないか。また、それは感染症と隔離の期間に培われた詩情ではないか。つまり、人間に「まるで死んだ人かのように」、つまり自らの所有するモノであるかのように大事にかかげてうっとりする仕草こそ、隔離生活が生み出した人の欲のひとつの形ではないか。
 『バービー』についてマーゴット・ロビーのことをまだ一度も語っていなかった。ここに登場する他のバービーたち同様、彼女もまたどこまでも記号的でコンセプチュアルだ。それは他のバービーたちと異なって死を思い、セルライトを恐怖し、生身の人間に憧れるからといってさほど変わらない。彼女は「人間に憧れるバービー」というキャラクターに過ぎないのだ。ピノキオを彷彿とさせる結末もまた、類型的である。ただこの二作品ではフィクションというアクリル板を隔てた向こう側から眺めるロマンティックで安全で清潔な死がきらきらと煌めくに過ぎないのだ。

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