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”表現”という芸術療法

絵画教室に行っていたころ
先生に言われたことがある

商業画家として、生計を立てて 絵を描くタイプ

命を削り、認められず、それでも1枚でも 絵を描くタイプ

私は、後者だと。

認められたいわけでもないし
ましてや目立ちたくもない
チヤホヤされるのは(されもしないけど)いちばん苦手

でも
うれしくなかった。

認められない絵を描いても、描くこと、創ることを
どこかでやめられない。


それをしないと
正気で、いられなくなる時があるから。


芸術療法を自然と欲しているのだと。


創作モードに入ると
寝食(生命にかかわることすべて)を
忘れて没頭してしまう傾向がある。


絵画教室の
同期生は、画業を生業にできていたり
ほかの創作活動で、生計を立てている人ばかり。
( 学歴も、経験も、人間関係も 雲泥の差 )


先生は、自分のどこに、何が見えたのか、わからないけれど


教室も 私が、生活苦なのを知っていて
家事手伝いやワンコの世話を
することなどと引き換えに
( 多分、口実だと思う )
月謝を免除にしてくれてまで
習いに来るようにしてくれていた。
(ありがたいことだった)


お教室には
学校の先生をされていた方や
趣味教室の先生をされている方
そこそこ裕福で、家庭も円満そうな人ばかりで
会話についていけないので、しんどかった。


絵にも、集中できない 。


配慮してくれて
この日の、この時間なら、人が少ないよ。とか。


その教室では
デッサン
水彩画
アクリルガッシュ
油彩
などを 生徒さんは描いていたが

私は、デッサンで絵画の基礎を学びながら、
少し水彩画をして
油絵には移行しなかった。

誰に言われるでもなく
コラージュとペン画を合わせたものをつくりだしたり
アクリルガッシュを直付けして、立体感のある絵にしたり


ほかの人は、静物画とか人物画とか風景画なのに。


出展させてもらったこともある


でも、先生は
何も言わずに受け入れてくれたし
コラージュの素材は、できるなら
自分が創りなさい(描く、撮る)と言ってもらった。


学がないのなら、
図書館や美術館にある本を、
端から端まで読むぐらいの努力をすれば
大学に行ったも同じ。とも。


画材がないのなら、自分で作りなさい。


キャンバスにしようと思えば
何にでも、キャンバスのかわりになる。とも。
( 舞踏家なんかは、自分の体がキャンバス )


自分の中のものを、表現して
時には、グロテスクだと思ったり
狂ってるなと思ったりしたのだけど
そういうものは、先生にしか見せていない


フランシス・ベーコン の 絵を見て
心酔した記憶がある。

彼の伝記映画は、坂本龍一が音楽を手掛けている
田中泯 の表現にも引き込まれた。


その頃に、描いた絵は、
全て 実家に置いてきた
今は、実家もない。


抑えた表現の作品しか 出展はしたことがない


周りの感想は、意外なもので

「 たのしそう 」な 絵 と言われた。

「 どういう頭の中してたら、そんなの描けるの?」


自分でも よくわかってない
勝手に 手と体が 動く感じ 。




私は、健全な絵を描ける
ほかの人の方が、うらやましかったのに。


先生には、こうも言われた。
「 あなたが やってることは、シュルレアリスムよ 」
「 あなたは、あきらめが悪いわ 」

悪い意味かと思ったら
いい意味だったらしい。


描きつづけなさい
創りつづけなさい

そう言われた。


後は、
もっと表現していいんだよ。


ブレーキを、かけてしまうのも
すべて お見通しのようだった。


「 何か 」を。


  まだ、ブレーキはかかったまま


 認められることがなくても


 それしかできない(自分)から。


「 何か 」心血を、注いだモノを
たったひとつでいい
残すことが、できるといいのだけれど。


そのためには、エネルギーが必要。
蓄えなくては。


これから創るとしたら
その当時とは
おそらく違う作風だと思いたい。
時間ともに、情景も変わっているはず。


音楽を作ることも
写真を撮ることも
アートをつくること
演劇、文化活動、文芸など多岐にわたる
創作という ”表現” は ”芸術” としての 療法なのだろう。

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