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東京下町を慰霊する 【My Dark Tourism 東京】

 東京に生まれ育ちながら、東京をそんな目であるきまわったことがない。もとより幼い頃も、20代になってからも、関東大震災も東京大空襲も紡績工場も、ほとんど頭のなかに存在しなかった。しかしいまはあるきたいところ、見てまわりたいところがたくさんある。

 東京もまた無数の「言われなき死者たち」がいまも眠れぬ町である。

 湯島のホテル前の坂道をくだり、御徒町から地下鉄で両国へ出た。国技館や江戸東京博物館、ホテルなどが建ち並ぶ一画にある横網町公園は、かつて陸軍の被服廠(軍服などの製造・貯蔵・調達などを担った施設)があった。

 1923(大正12)年、関東大震災が発生したとき、被服廠の移転に伴い東京市が跡地を買収して公園の造成を進めている最中であった。多くの人びとが家財道具と共にその「空き地」へ避難してきたところへ飛び火し、四方からの強風にあおられて一面はたちまちにして逃げ場のない火焔の坩堝となった。

都立横網町公園


 じつはわたしの父方の祖母は、この横網町公園から東へ徒歩20分ほどの大平町が実家であった。 左官職人を大勢抱えた棟梁の家だったらしい。1906(明治39)年生まれの祖母「たま」は、このとき16歳。生前、墨田川へ飛び込んで助かったという話を本人から聞いたことがある。もし祖母がこの横網町公園へ逃げていたら、わたしはこの世に生まれてこなかったことになる。

 ようやく火が収まった後の被服廠後には黒焦げの死体が累々と重なり、鬼哭啾々たる景色であったという。遺体を火葬するために88名の人夫が集められたが「酸鼻に堪えず」その日の午後まで残ったのはわずか4人だった。処理された遺体は3万8千体。灰の山がうずたかく積まれた場所に建てられたのが現在の慰霊堂である。

慰霊堂(横網町公園)

 最終的にこの慰霊塔には、5万8千 人の関東大震災の遭難死者の遺骨、そして1945年3月10日の東京大空襲による死者10万5千体の遺骨が安置されている。公園内には1931(昭和6) 年に開館した二階建ての震災復興記念館(現在は東京都復興記念館)がある。ひとつの建物に関東大震災と東京大空襲の資料や遺品、当時の写真パネルなどがひしめいていて、ひたすら重い。

 ここで慰霊堂と復興記念館の由来を記した冊子(東京公園文庫48)と、竹久夢二が震災翌日の東京の町をスケッチして歩き新聞に連載した「東京災難畫信」を購入した。夢二はそのなかで、「萬ちゃんを敵にしようよ」「いやだあ僕、だって竹槍で突くんだろう」と会話して自警団ごっこ をする子どもたちの姿を描いている。

竹久夢二「東京災難畫信」から
竹久夢二「東京災難畫信」から

 展示パネルには「流言飛語による治安の悪化」と題して自警団による朝鮮人虐殺の説明はあったが、併設の写真は流言飛語を罰するという警視庁のビラで、軍隊や警察が虐殺に関わっていた事実は伏せられている。大杉栄と伊藤野枝の虐殺、亀戸事件なども展示するべきではないか。


 展示をじっくり見て、帰り際に受付のおばちゃんとしばし雑談をする。東京大空襲の写真が現在のウクライナと見紛うという話におばちゃんは、「日本人もすっ かり平和呆けしてしまって、徴兵制があった方がいいと知人が言っていました」なぞと言う。

慰霊堂内部

 記念館を辞して、慰霊堂へ入る。東京築地本願寺の設計で有名な伊東忠太 による建物内部はカトリック教会の聖堂のようである。祭壇の前で恒例なのだろう、数名のお年寄りたちがパイプ椅子にすわって読経をあげていた。慰霊堂の横には「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼の碑」がある。「誤った策動と流言蜚語のために奪われた6千余名の尊い命」を追悼する碑である。花はないが、手元のお茶を碑に注いで手を合わせた。

関東大震災朝鮮人犠牲者追悼の碑
「この歴史 永遠に忘れず 在日朝鮮人と固く手を握り 日朝親善 アジア平和を打ちたてん 藤孝成志」
一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため 六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。 私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。 この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、 民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。 思想、信条の創意を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、 日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。 一九七三年九月 関東大震災朝鮮人犠牲者 追悼行事実行委員会


 公園には犬を連れたりした近所の人が三々五々通り抜けていく。約百年前、ここに累々と黒焦げの遺体が積み重なった凄絶な光景を思い描いてみようとするが、現実とあまりにかけ離れすぎていてうまくいかない。高層ビルに囲まれた慰霊堂はまるで巨神兵の白骨のようだ。どちらかがまぼろしなのだ。

 北斎通りを東へと向かう。すみだ北斎美術館は賑わっているようで、ちらと覗き込んで通りすぎた。どのみち今日は北斎を味わう気分でない。公園と化した大横川を越えて、祖母の実家があった大平町2丁目あたりの路地をあるきまわった。

「関口」というのが祖母の旧姓で、表札をさがすが見当たらない。ひょっとしたらと思って太田道灌開基という近くの法恩寺へもどり、墓石の間をさまよっているときに、そういえば墓は日暮里あたりの山手線の電車から見えるとむかし聞いたことを思い出した。黒ずんだ古い墓石がならぶその向こうにそびえ立つ東京スカイツリーがまるで巨大な卒塔婆のように見える。あるいは神にくずされ、ひとのことばが狂わされたバベルの塔か。

大平町2丁目の路地から
太田道灌開基 法恩寺墓地から

 亀戸天神の前を抜け、用水路のような北十間川へ出た。このあたり、飯島喜美が東京モスリンの紡績工場へ就職した1927(昭和2)年の頃は、紡績工場のほかにも花王石鹸、日立製作所などの大工場、中小工場が立ち並ぶ一大工業地帯であった。

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