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その声は届いてる

「文章を書いててよかった」と思う出来事が、最近ちょっとずつ増えてきている。


先月くらいからだろうか。昔からの友人がブログを書き始めたらしく、記事を更新するたびにLINEで共有してくれている。僕は彼が送ってくる記事は必ず読んで、感想のメッセージを送ったり送らなかったりする。
正直、送らない場合の方が多い。

そいつはシャイな男なので直接は言ってこないが、文章での発信を始めたのは僕(とおぼしき人物)の影響が一因だと、自身の記事で明言していた。

僕もシャイな人間なので直接は言わなかったが、その一文を目にしたとき、とても嬉しかった。
自分の言葉で、誰かの歩みを後押しできるのだと気づかされた。


noteで記事を書き始めたころ、「どこかの誰かに、自分の文章が深く突き刺さってほしい」みたいなことを言っていた。

ちょうど最近、イメージに近いような出来事があった。
ある野球選手について書いた記事が突然Twitterでシェアされて、こんなつぶやきまで回ってきた。

「アンタがどこの誰かは知らないが、アンタが書いたようなことをまさに俺は言いたかったんだ!」

そう言ってくれる人が、現実にいる。
その事実が奇跡のように思えて、その日は眠るまで心が小躍りしていた。


スキの数やPV数でもモチベーションは上昇するが、一番効果があるのはやはり、読んでくれた人の生の言葉だ。
「良かった」「面白かった」の言葉がもらえただけで、「ああ、書いてよかった」と心から思える。


書くという行為は、「砂漠のど真ん中で叫び声を上げる」ようなものだ。

辺りには誰もいない、完全な孤独。熱さと渇きで憔悴しきりながらも、誰かがいるはずと信じて一人、声を涸らし言葉を空に投げこむ。
当然、返事は来ない。空の上では旅客機がエンジン音を響かせて、僕のことなんて芥ほども気にかけず飛んでいる。
やがて日は沈み、寒さと静寂が辺りを包む。それでも懲りずに、声をあげ続ける。
そんなことを続けているとある日、たまたま村人と出くわしたり、近くを隊商のキャラバンが横切ったり、同じような境遇の旅人とすれ違ったりする。

遭遇者から水を分けてもらい、体の渇きが癒されるとき、そこで初めて自分がやってきたことに意味があったんだと思える。

自分は、この世界で一人じゃなかったんだと。


今日まで文章を書いていてよかった。僕の声は、確かにどこかの誰かに届いてる。
そして君の声もまた、僕にちゃんと届いてるから。

あなたのちょっとのやさしさが、わたしの大きな力になります。 ご厚意いただけましたら、より佳い文章にて報いらせていただきます。