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踊り子

嘉納の体温は彼の言葉と同じ温かさを持っている。肌が触れていなくても、隣に横たわるだけで暖かい。これがいけないのだと思った。このせいで私は彼を信じ続けてしまうのだろう。まっすぐに三人の女性を愛するということをやってのける人間であるように思えてしまうのである。

鈴木絵美を憎んでいるのではなかった。
絵美の話をする嘉納の口元を見ていた。焦点の外で形を変えてきらきらとしている二つの目を見るだけの用意がなかった。三年の間に彼がくれた言葉を思い出そうと試みたが、箪笥を開ける手がもたついているように、何も浮かんでこない。同僚の鈴木絵美。何故今になって。私には彼女の価値がわからない。それでも嘉納の手にかかれば「個性的な女性」になる。私と全く同じように。

水平線と雲を見ると再生される会話がある。白い煙の揺らぎ。固いコンクリートの感触。
思想への愛、言葉への愛は呪いである。軸を失った思想は瞬時に不安に塗り潰されていく。見境のない肯定に意味はない。ずっと恐れていたことではあったが、いつの間にか意味のある言葉だと思い込み、内面化してしまっていた。確かに共有したはずの記憶すら、私の中だけに残った。共有のない愛は成り立たない。
信じ続けることは愚かなのだろうか。人の語る過去、思想、反応する心、先を見つめる目を、疑いなく受け入れることは。嘉納はそれを実行している人間だと思っていた。いつの間にか彼の見る私には薄い膜がかかり、私の言葉を観察しなくなっていたようだ。私だけがまだ彼を見続け、彼の言葉を心に染み込ませている。

踊り子から海を見ていた。
途切れながらもそこに存在する海。車窓の海と触れる海の波は異なるもののように思われる。
席を立つとポケットがずしりと重くなった。一年前に同じ海で拾った丸い石を持ってきている。海の記憶にはいつも嘉納がいた。私はこの石を返しに来た。内面化された呪いを解くのである。

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