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【第四回】シャーロック・ホームズの翻訳と言えばこの人

『新青年』で翻訳者デビューした延原謙(1892年生まれ1977年没)。現役翻訳者として活躍されていたのは戦前から戦後にかけてでしたが、いまでも新潮文庫で延原謙の訳が採用されています。そのおかげで、「シャーロック・ホームズの邦訳と言えば延原謙」というイメージはいまだに強いのではないかと思います。

そんな延原が『新青年』に初めて訳文原稿を持ちこんだのは大正10年(1921)のことでした。この頃、延原は逓信省電気試験所(昔の通信省の研究所)の研究員でした。

そう、延原は理系なんです。

しかも公的機関の研究員だから、エリートですよね、きっと。なんでわざわざ翻訳やろうと思ったんだ?と当人に質問したいところですが、訳文原稿をこのタイミングで持ちこんだ理由ははっきりわかっていません。
でも、子ども時代まで遡ると翻訳者としての素養を培ってきたんだな、というのが見えてきます。いっしょに辿っていきましょう。

延原の子ども~学生時代

延原は宣教師の父と、キリスト教徒の母のもとで生まれました。
延原謙自身はキリスト教徒ではなかったようですが、ある程度はキリスト教に関する素養があり、翻訳作業中にわからないことが出てきたら母親に尋ねていたようです。

シャーロック・ホームズを訳すとき、宗教――といってもどうせキリスト教だが、宗教上の専門語が出てくると困って亡母に尋ねた。亡母は言下にすばりと教えてくれた。早く亡くなった父もこの母も教会へはあまり行かなかったが、ニュー・イングランド直系の組合協会派のかたい信者だった。それでおさないころから強制的に日曜学校へ行かされたが、霊魂の不滅が信じられないので、中学校へ行くころから教会ゆきはやめてしまった。

延原謙「思い出の一端」

「宗教上の専門語」とありますが、「これ宗教用語だな」と気づくの、けっこう難しいんです。英文(というかヨーロッパ言語の文章)は往々にして聖書からの引用が多いものですが、読者も聖書に詳しい前提なので、わざわざ「新約聖書X章」とかって引用元が書いてあるわけではありません。非キリスト教徒からすると、「なんか英語特有の慣用句かな」と思っていたら、聖書の引用だったということも多々あり、訳すのに苦労します。ずっと日曜学校に行っていたなら、最終的に入信していなくても、ある程度気づけるでしょうね。

さて、母親は自宅で竹内女学校を開き、英語と国語を教えていました。延原は幼いときに父親を亡くし、そんな母親のもとで育っていますので、おそらく英語と国語は母親の指導を受けていたのではないかと推察します。
その後、早稲田中学校、早稲田大学理工学部に進学しています。理系に行っちゃうんですね。でも、この頃に人生初の翻訳をしていたそうです。

中学を出た年に、慶応の仏文科に行っている友人から、アフタ・ディナ・シリーズというものを借りて読んだ。モーパッサンの短編集の英訳である。そのなかに一つグロテスクな話があった。(略)ついいたずら気を起こして和訳し、その友人に見せたことがあるのだ。

延原謙「思い出の一端」

モーパッサンって、理系の大学一年生が手慰みにぱぱっと翻訳できるほど読みやすい…わけないですよね。「ついいたずら気」を起こして訳せるものじゃないと思うのだけれど…延原はこの頃にはすでに、翻訳できるだけの素養があったのかな、と思います。母親の教育の賜物でしょうか。

研究員時代

大学卒業後、延原は科学者としての道を歩みはじめます。大阪市電鉄→日立製作所→逓信省電気試験所と順調にキャリアを積み上げていきました。
勉強熱心な人柄だったようで、外国から電気雑誌を毎月取り寄せていました。その雑誌に探偵小説が掲載されており、英語の勉強としてこの連載小説を和訳していたそうです…物好きですよね。エリート研究者がやることじゃないと思う。
そこで探偵小説にはまり、わざわざ「シャーロック・ホームズ」が掲載されている『ストランド・マガジン』(もはや電気まったく関係ない)を取り寄せて読むようになったというのが、シャーロック・ホームズとの出会いのようです。

電気を勉強したからこそ探偵小説の理屈っぽさに興味が湧き、飽きずにミステリー一すじに翻訳をしつづける事が出来たと思う。即ち電気も探偵小説も原因があって結果が出、伏線が複雑なほど面白いものである。そして嘘、ごまかしは一切ゆるされない。

延原謙「ホームズとの出会い」

いつ頃、延原謙が電気試験所を辞職したのか、わかっていません。でも、昭和3年(1928年)に『新青年』の3代目編集長に就任していますので、この前に辞めたのでしょう。その前まで、延原は電気試験所で働きながら、大量の訳稿(シャーロック・ホームズだけでなく、ミステリ全般)を『新青年』に投稿していたようです。複数のペンネームを使っていたみたいで、はっきりした数はわからないのですが、ペースにして年平均8本は書いていたようです。フルタイムで研究員やりながら年8本の翻訳…本当に好きじゃないと無理でしょう。上に引用したエッセイを見ると、翻訳というより海外の探偵小説が大好きだったんだなと思います。おもしろい小説を外国語原文で読むと、「みんなにも読んで楽しんでもらいたい!」ってなるのが翻訳者の性です。

そんな探偵小説大好き延原。編集長に就任するものの、困難な未来が待ち受けていました…次回、取り上げます。

延原謙の経歴はこちらを参照しました↓↓

延原謙のエッセイはこちらにまとまっています↓↓


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