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「ゴードン・マッタ=クラーク展」と「建築の日本展」;建築と都市をめぐる二つの視点 Part 1

8月、9月と帰省している間に、東京へと足を伸ばした。お目当は二つの展覧会、国立近代美術館で開催された「ゴードン・マッタ=クラーク展」と森美術館での「建築の日本展」。訪れる前は特に意図していたわけではないけれど、この二つの展覧会を背中合わせに観たことが大きな収穫、思考の種となったと思っている。

「建築の日本展」は「その遺伝子のもたらすもの」英語では Genealogies of Its Transformation (その変化の系譜学)という副題にもある通り、古代から現代まで日本で作られてきた建築が、「可能性としての木造」「安らかなる屋根」「連なる空間」「開かれた折衷」「集まって生きる形」など、多岐多様にわたるテーマごとにまとめられ非常に詳しい解説とともに展示されていた。大変なボリューム。写真や図面はもちろんのこと、大きく立派な作りの模型があり(丹下健三自邸の1:3モデルの素晴らしかったこと!)、イマーシブなデジタルインスタレーションがあり、帝国ホテルの柱の一部といった実物が展示され、丹下デザインの家具には実際に座れるなど、展示物のスタイルも多様で充実していて、楽しかった。

興味深いなと思ったのは、その内容がどこまでも「建築」が中心で、「建築」の内側で何が起きてきたか、その内風景、どちらかといえば「内向き」であったにも関わらず、展示/コミュニケーションのスタイルは「建築」の外部の人に向けたものであったという点だ。今風に建築の「自分語り」とでもいえばいいのかしら。それでなのか解説も事細かいと同時になんとも概念的(悪くいえば大雑把)で、壁のあちらこちらに大書されたフレーズが、大声で叫ばれるスローガンのようにも感じられた。あるいは学校の先生が板書する授業のキーポイントというか。(全体に濃く流れる自画自賛、「日本凄い」臭にはやや閉口した)それにしてもよく混んでいた。平日の昼間というのに大変な賑わいであった。

大変気になったのは、解説文の中で「日本の」建築と対比されるのが「西洋の」建築ばかりであったことだ。問題点は二つ、「西洋」という枠組みがあまりにも概念的で実像をともわないこと。もう一つは「日本」と「西洋」以外にも(もちろん)建築は存在するのだけれど、それをあっさり無視してしまっていいのかという点。例えば、日本建築の特徴として、なんの逡巡もなく口にされる「内と外とのシームレスな空間的連続」にしたところで、それでは「西洋」の範疇に入るであろうメキシコのヴァナキュラー建築の見事な格子戸や、中庭に向けて部屋が開かれ風通しの良さが売りのインドの建築などは?との疑問が湧く。「(ジェネリックな)西洋と日本」といった閉じた二元論の一歩外に出れば、あちらこちらに似たような例、似たような解釈が当てはまる建築の形は数多見られる。限られたスペースに「日本の建築」だけでさえぎゅうといっぱいに詰め込まれた会場で、世界のヴァナキュラーを列挙して説明すべきだったとは思わないが、せめて安易な一般論は避けるべきではなかったかと思う。

長くなったので、近美のゴードン・マッタ=クラーク展のことはまた次回。