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ヘレン・マクドナルド H is for Hawk (オはオオタカのオ)

一度だけまともな庭のある家に住んだことがある。3人でシェアしていた築150年くらいの2階建てのテラスハウスで、ダイニングキッチンから大きなガラス張りの開口部を通って出られる裏庭があった。その庭に、近所で飼われている猫たちがやってくるのが好きだった。猫たちは、それぞれに好みの場所を見つけてはゆっくりと座って身繕いをしたり、あちこち茂みを覗いて回ったり、縄張り争い(よその庭だというのに!)をしたりしていた。彼らには、私の知らない世界、営みがあると思えるのが好ましかった。餌台を置くと小鳥たちも来た。狐も来た。長く住むフラットメイトが、数年まえに隣家の庭の物置小屋の下に狐が巣を作り仔狐を生んだことがあると教えてくれた。人間たちが細かく区切って高い壁を築き、所有がローンが家賃が資産価値がと心を砕く、それこそ「猫の額ほど」の土地を、猫たちは、小鳥たちは、狐たちは、悠然と自由に行ったり来たりしていた。

H is for Hawkでも人間が作った垣根を調教中のオオタカが何度も悠々とこえていってしまう。その度に著者でオオタカのメイベルの飼い主のマクドナルドは、農地を分ける生垣に飛び込んで引っ掻き傷だらけになりながら後を追う。

タカは捉えた獲物を持って帰っては来ないので、鷹匠が走って追わざるを得ないのだと、この本を読んで知った。よく考えてみれば当たり前のことだと納得するのだが、そんな当たり前のことでも立ち止まってじっとその場で目を凝らし、考えてみなければ分からないことが、世の中にはたくさんある。何よりも大切なのはと、9歳のヘレンに父親がいう「何かを見たいと強く願うなら、どれほど強く願っているのかを思い出しながら、その場でじっとしていなければならない時がある。辛抱強く」

H is for Hawkは最愛の父親を亡くした著者の喪失と回復の記録だ。と同時に人と自然の関わりのあり方に対する考察であり、オオタカの幼鳥メイベルの訓練と成長の記録であり、鷹狩の歴史を記したものであり、同じくオオタカを調教し「The Goshawk (オオタカ)」という書を残した20世紀初頭の作家T・H・ホワイトに関する考察でもある。重厚な一冊だった。愛する人を失ったgrief 悲しみそのものの重さのようだった。暗く静かで動かない、深い海の底のような場所、私も何度か経験したことのある、歩いたことのある場所を、マクドナルドは辛抱強く歩く。その辛抱強さがもたらす発見の、考察の鮮やかさに、何度もため息が出た。

Nature writingというジャンルがあり、H is for Hawkもまたそのカテゴリーに含まれてもいるのだが、私たちが日々対面し「Nature /自然」と呼ぶものは実は人の手が入った、関係したものであるということを、何度も何度も、マクドナルドは思い出させてくれる。私たちは往々にして自分たちを「自然」の外に置きたがる。自然の中に入っていくといい、自然と対峙するという。他者としての自然に「癒し」を求めようとする。だけれど、人との関係性の中で形作られてきた自然は決して完全な「他者」ではありえないし、人間の営みを含んだシステムとしての自然が人間を「癒し」てくれることなどありはしない。父親を失い職を失い家を失い、オオタカと同化しようとするほど精神のバランスを崩したヘレンを「癒し」たのは、医師が処方した薬と彼女を取り巻く人々の思いやりと愛情だった。

それでも…

メイベルは自由に垣根を越え、ホワイトの鷹は空へと消える。地をゆくことしかできない人間は、マクドナルドもホワイトも、オオタカのあとを追うことしかできないけれど、それでも、そうやって走ることで辛抱強く追うことで、彼らは何かを得ることができたのだのだと思う。自然は人を救ってはくれないけれど、人は自然と関わりあうことで自らを救うことはできるのかもしれない。

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