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サリー・ルーニー Normal People

I was two years late for the party, but , well, I thought, better late than never. And yes, a hugely rewarding read, it was...

2017年の夏、友人の誘いもあって引っ越した先は、特に「ミレニアル世代」に人気の街だった。友人が家を買った頃は、ロンドンを代表する貧困地区の中でも特に問題が山積し、ギャング関連の発砲事件なども相次いであちらこちらにmurder mile 、殺人通りとでも訳そうか、と呼ばれる場所があるところだった。13年後、それがまるで嘘か幻だったかのようにshabby chic なカフェやサワードウピザのレストラン、多肉植物を主に扱う花屋やインディ書店、クラフトビールを多く置くこじんまりとしたバー(パブではない!)やヨーロッパのアルチザンな食料品を集めたデリなどが肩を並べるエリアとなっていた。

そこで私と同年代のドイツ人の友人と当時20代後半の、いわゆる「ミレニアル世代」ど真ん中の、イタリア人の女性Dと三人でしばらく家をシェアして住んでいた。随分と年齢差はあるけれど、Dと私はすっかり仲良くなって、一緒に映画を見に行ったり日帰り旅行に出かけたり、本を貸しあったりレシピを交換したりした。私が帰国し彼女もミラノへ帰った今でも、時々WhatsAppでやりとりをしている。

Dや彼女の友人たちを通じて知った「ミレニアル」と呼ばれる人々の姿が煌めいて眩しかったのは、その若さゆえだけではなかったと思う。気候変動やプラスチック汚染、ジェンダーやLGBTQ+、格差や貧困、アニマルライツや食の安全など、彼らは多様な問題に敏感で、よく考えていて、導き出した理想にとって誠実であろうとしていた。と同時に、その真摯なセンシティビティと、SNS(Instagramが彼らの好みだった)に顕著な「見せる/見られる」文化との共存は時に大きな負担ともなっていたように思う。彼らの理想はSNSを通じて共有され普遍化されていて、その実現にはハートの形をした評価が与えられる。皆の前で常に正しくあろう、誠実であろう、他者からのそして自らの様々な期待に応えよう、評価を得よう、「普通」であろうとして、時に彼らはとてもしんどそうだった。随分と年上の私は、彼らを眩しく羨ましく思いつつも、ちょっと心配もしていた。

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2018年に出版されて大ベストセラーとなり、数々の文学賞を受賞したNormal Peopleは、高校の同級生の男女の友情と恋愛を描いた小説で、当時27歳だったサリー・ルーニーの2冊目の本だ。近年、若くて優秀な作家を多く輩出しているアイルランド文学界の中でも、作者も主人公も若く同年代なこともあり、何かと「ミレニアル世代」の声を代弁しているかのように言われるルーニーだけれど、Normal Peopleを読みながらまず心に浮かんだ印象は Jane Austen meets Eric Rohmer、ジェーン・オースティンとエリック・ロメールの出会い、だった。(もちろんこの発想が私の「世代」の限界?なのかもしれないけれど。)

他人との関係性の中で期待されたとおりに、共有された理想と社会規範に沿って、「普通」であろうと、あらかじめ定められたコレオグラフィーに倣って行動しようとする主人公たちが、それでも胸の内に湧く気持ち、理想とは相反する「普通」ではない感情との葛藤に悩み苦しむ様子を静かに緻密に追う物語は、オースティンの「分別と多感 Sense and Sensibility」を思い出させたし、その葛藤が決して大仰でドラマチックなカタルシスを迎えないのがロメールの「一見大したことは何も起こらない」映画作品思わせた。もちろん、私としては最大限の賛辞だ。「大したことは何も起こらない」物語の中にどうしようもなくマジカルな瞬間を実現させることは容易ではないのだから。

ルーニーが「ミレニアル世代」を強く感じさせるのだとすれば、それは他の中に結ばれる像としての個のあり方、という認識を、ありふれたもの、「普通」のものとしてスターティングポイントに置いているところかもしれない。そしてNormal Peopleは、ふたりの若者が他者の目を介さずお互いに向き合うこと、見つめ合うこと、寄り添うこと、そのふたりだけの関係性の中に恋愛は存在することが可能なのだと示すことで、私が感じたミレニアル世代の「しんどさ」の解毒剤になっているのではないかと思う。

そして「見られる」存在、評価される存在であることを強く意識している男性が主人公の片割れであるところ、彼の葛藤や戸惑い、深く負った傷なども克明に描かれるところも新しいと思う。オースティンとの最大の違いはそこかもしれない。

ルーニーの書く文には無駄がない、余計な装飾もなく、ある意味「efficient 効率的」ともいえるかもしれない。それでいながら彼女の文章はとても詩的だと思う。主人公たちの行動や感情を取り巻く情景、小さな手の動きや視線の移動、窓の外の風景、室内に置かれた物、皮膚の感触、手触りなど、細かく描写し積み上げることで、実直で簡潔なセンテンスで綴られた世界は、陰影とテクスチャーに満ちて豊かなものになっている。作品世界を描写するルーニーの焦点は頻繁に移動し、カメラのアングルは変化し、ズームで近寄りまた離れてゆく。天候や光、空気の温度や湿度などが、主人公たちの心の様に呼応するかのように描かれる。マジカルな瞬間が訪れる。とても、とても映画的だ。

イタリアの別荘での一節は特に印象深く美しく、甘美な悲痛に、読んでいて息が止まりそうになった。数ページ戻って再び読み直す。辿る。夏の南欧の、あの光、あの空気、ぬるくなったワイン、やがてくる夜の匂い、欲望、嫉妬、自己嫌悪、後悔、戸惑い、どうにもならない感情が汗のように滲み出てくる、その様を、エリック・ロメールになったつもりで思い描いてみたりした。

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