見出し画像

岸政彦 柴崎友香 「大阪」

本の帯に、ところで私はこの帯というのが大層苦手で、昔は買ったらすぐに外して捨ててしまっていたのだけれど、久しぶりに買う本たちはどうやら帯が装丁の一部、デザインの一部になっているようで持て余しているのだが、その帯に「大阪に来た人、大阪を出た人」とある。それなら大阪生まれで大阪から英国へと移住し、約30年ぶりに帰国した私は「大阪に戻った人」だなと、ぼんやり思った。

大阪「府」と大阪「市」の「二重行政」とやらが声高に語られ出した頃、名前がたまたま同じやからて、何を寝ぼけたこと云うてんねやろと呆れたものだった。(岡山や大分、秋田なんかでも同じような議論があるのだろうか。大阪だけが特別にこだわってんやろか?)とはいえ、「大阪」と口にしたとき、府と市の両方あるのはややこしいのは事実だ。

私は、生まれたのは母の実家に近い大阪市内の、現旭区、旧大宮町の産院だが、両親は門真市の長屋住まいだった。ちなみに大宮町は私が3歳ぐらいの頃に旭区に編入されて、「町」が取れて「大宮」になった。それでも私の家族のうちではあの一帯は今でも「大宮町」と呼ばれている。そして「大宮町」と口にすると、祖父母宅の雨戸が開けられる前の暗い縁側や、仏壇の線香の匂いや、見上げた蚊帳のぼんやりとした白さが脳裏に浮かんでくる。それから奈良県(奈良市!)に出来たばかりの公団の団地に引っ越し、小学校3年生で大阪の吹田市へ、中学2年で枚方へ引っ越し、大学を卒業して英国へ渡るまでそこに暮らした。中学は市立で高校は府立、大学も府立で堺にあった。京阪で東から大阪市に入り、環状線を外回りに三分の一ほど回って南の端の天王寺から阪和線と、大阪市を素通りする形で通学していた。

「どこの出身ですか」と尋ねられれば「大阪です」と答えるし、自分は「大阪人」やと思っているが、大阪市内に住んだことはない。私が「大阪」と口にするとき、それは大阪平野とほぼ重なっている。生駒と金剛山と和泉山脈と六甲と北摂山地に囲まれて、海に向かってひらけた、三日月の形をした大阪(府)だ。

ところが、大阪市内で生まれて、疎開中を除いて市内で育ち、通った中学も高校も大学もみな大阪市内にある母の「大阪」はもっともっと狭い。彼女が「大阪」と口にするとき、そこには八尾や松原や交野や豊能郡なんかは含まれていないように響く。私は自分が「大阪弁」を喋ると思っているが、枚方(北河内)の高校生だった私に、母は「あんたは、あれやな、河内弁やな」と残念そうにため息をついた。

岸政彦と柴崎友香のタンデムエッセイ集を読むあいだ、私と母のふたつの「大阪」のことが頭の後ろの方をずっとちらちらとしていた。筆者紹介によると、岸氏と私は同い年で同じ頃に大阪で大学生をしていたし、高校生だった柴崎氏が通った映画館には私も足繁く通っていた。『大阪』に書かれた「大阪」は、私のよく知る大阪だと思った。ちょうど英国へ発つ前頃の。(私は別に日本や大阪に嫌気がさして離れたわけでも、英国に強く焦がれて向かったわけでもなかった。惰性と成り行きで向かった異国で半年遊ぶつもりが、惰性と成り行きで30年になっただけだ。)ひょっとしたら、映画館で、本屋で、ビッグマンの前で、ひっかけ橋の上で、環状線の車内で、どこかで、お二人とすれ違っていたかもしれない。でも、同時に、ここに書かれた「大阪」のほとんどが市内のことで、母にとっての「大阪」でもあるなあとも思っていた。郊外の巨大団地のはずれに住んでいた高校生が、同じ団地に住む友人たちと週末に片道45分かけて通った「大阪」だ。(「大阪行こか」とは決して言わなかったと思う。「梅田行こか」「心斎橋にしよか」「難波やな」)

大阪って、なんやねん。
大阪って、どこやねん。

柴崎氏は「物事も人も、とても複雑でとらえきれないものなのに、ある一面を言葉で書く。ここに書いた『大阪』は、ほんの一部のさらに断面でしかないのだ」と書いた。それでも、その一部のさらに断面に、「大阪」は確実に宿っている。私を形作る小さな細胞のひとつひとつに、同じDNAがひっそりと存在するように。そして大阪を訪れたことのない人、大阪に暮らしたことのない人は、ここに書かれ集められた、小さくも詳細で、確かな重みと手触りを持った「大阪」の断片たちの中に、彼らの生きる/生きた街の姿を、匂いを、音を発見するのではないかとも思う。海を遠く離れた場所でも、貝殻を耳に当てると潮騒が聞こえるように。

人はそういう風に、自分のうちにある断片を通してしか、街を生きることはできないし、そういう風にしか街を思うことができないんじゃないかと思う。

ところで、表紙カバーや見返しの小川雅章氏の絵は、私のよく知らない海の近くの「大阪」を描いたもので、母の「大阪」のように、私の「大阪」とは少しずれているのだが、好んで飽きず眺めていると、しばらく暮らしたロンドンの東の端のテムズ川沿いの景色と重なって、彼方からコンテナを乗せてテムズを上る平底船のエンジンの音が聞こえてきた。対岸のセメント工場の明かりが水面に映って揺れる様が、幻のように浮かんできた。この川を下り、海を渡り、その向こうにはロンドンがある。私の生きた(愛した)二つの街は、そんな風に繋がっている。重なっている。

画像1

【追記】
私は英国で何年かの間、都市計画や建築の面から、地域再活性化計画づくりに関わっていた。都市は動かなくなればやがて朽ちるしかないと信じるが、その動きを与えるため、時には強くあるいはそうっと押したり引いたりする中で、都市に生きる人々一人一人が内に抱える数多の都市の断片を、どうやって取りこぼさず、拾い上げ、活かし、繋げていけばいいのか、当時も今もよくわかっていない気がする。ひょっとするとそんな解など存在しないのかもしれない。それでもなんとか、人々のうちの都市の断片を拾い集めようとしたこと自体が、都市を動かすモーメントになるのかな。なるのかもしれない。なったのなら良い。嬉しい。万々歳だ。

画像2