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岸政彦 断片的なものの社会学 (とエジンバラ公フィリップの死)

2021年4月9日、エジンバラ公フィリップが逝去した。99歳だというので、大往生といっていいのだろうが、キリスト教にも「大往生」という概念はあるのだろうか。

その日一日、英国メディアはどこも延々とフィリップ追悼番組を放送していたそうだ。いつも聴いているBBCラジオの国外向けのワールドサービスでさえ「予定を変更して」の追悼番組が放送された。

エジンバラ公はその高慢かつ傲慢で無礼な言動でよく知られ、19世紀からアップデートされないままの価値観/モラル/世界観(inheritently racistだしsexistだ)を反映した発言からも「前世紀の遺物」と考えられてるとばかり思っていた。それを愛する人もいたし、侮蔑する人もいた。彼の存在自体が冗談のようだと笑う人もいれば、困ったものだと眉を顰める人もいた。それなのに、亡くなった途端に、WWF設立に助力したこと「自然保護」を熱心に訴えたことなどばかりが強調され、彼が狩猟を好んだことは無視され、女性や異文化、庶民などへ蔑視を含んだ彼の数多の発言は「失言」として軽く流され、「歯に衣着せぬ」と言ったポジティブなスピンをかけて、彼の傲慢と時代遅れの愚かさを許容するかのような報道ばかりで驚いた。驚いたけれども、ああ、彼の義理の娘にあたるダイアナの時もマイケル・ジャクソンの時も同じだったと思い出した。

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岸雅彦の「断片的なものの社会学」は読み応えのある書物だった。人の「語り」が「物語」となる寸前の段階で立ち止まって考えること、「物語」からこぼれ落ちてしまうものを拾いあげること、たとえ「物語」となった後でも、その中に立ち現れる不合理や裂け目といったものに注意深く目を向けること、それでもなお「物語」なしには世界と向き合えない自分を知っておくことなど、こうやって言葉にしてみるとなんとなくわかったような気持ちになるのだけれど、その実しっかりとこの手に掴めたという確信がないので、何度もページを行きつ戻りつしていたところで、エジンバラ公フィリップ逝去のニュースが耳に飛び込んできたんだった。ページから目を挙げて、ついこの間まで生きていた人の人生が、「共有されるべき物語」へと抄訳されていくのを聴いていた。

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ところで、BBCワールドサービスの前身はエンパイアサービスといって、かつて「日の沈むことのない」と呼ばれるほど広大になった大英帝国の各地に、様々な「共有されるべき物語」を伝える手段として始まったそうだ。1932年、エジンバラ公フィリップが11歳の頃のことだ。

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フィリップは、野生動物保護団体を立ち上げる一方で、虎狩りをしたり、(後に英国で禁止されることになった)猟犬を使った狐狩りを愛好し、野鳥の猟にも興じる人物であった。でも、そういった矛盾は誰にでも、誰の人生にでも大なり小なりあるだろう。

英王室のあれこれに詳しいとはいえない私でさえ、ギリシャとデンマーク両方の王族として生まれ、のちに英王室に「婿入り」したフィリップが辿ったランダムで数奇な、複雑で不合理な半生のことは多少なりとも知っている。岸氏がいうところの「断片的なもの」が集まってできていたのがフィリップであり、彼の人生だったとしたら、それらの断片を都合よく取捨選択し、並べ替え、化粧を施して、数十秒に「とりあえずまとめてみた」こと、whitewashされ最適化された「わかりやすい物語」に還元してしまったこと、それは暴力でしかないだろう。メディアは/私たちは、複雑で矛盾に満ちて不合理であったが故に豊かでもあったはずの彼の人生を、痩せ細って貧しくつまらないものにしてしまったのではないか。ダイアナの時もMJの時もそうだった。好感など持ったこともないフィリップだけれど、死んだ人(の人生)をこんな形で搾取するのはいかがなものかと思う。

そうやって、白くリニアになった物語を、丸薬のようになったそれを、くっと飲み下して「わかりました」と頷く時、私たちはフィリップ以上に傲慢だ。

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それにしても、「断片的なものの社会学」は魅力的な本だ。intelligentでかつemotionalだ。読みながら、納得できるという思いが頭をよぎる。でも確実に掴めたか理解できたかと問うと、不安になる。ちょっと量子物理学の話を聞いているときのようだとも思った。その掴みきれなさが切ない。そういった掴みきれなさの切なさが、「断片的なものの社会学」の底にも横たわっているのが見える。入れ小細工のように。見事なものだ。学問の本なのに、切ないなんて。そうだ、社会学を映画にしたら、こんな感じではないかしらと、ちょっと思ったりもした。

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