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第1章-1 病気だと決める人は誰?

「それはお医者さんでしょ」

って、まっさきに思った。今やわたしにとって「病気」と聞いて思い浮かぶのは、がんで、いわゆるがん宣告、告知が病気決定の瞬間だったからかも。

ふつうに健康、というか、病気がちじゃない人なら、「そりゃ自分でしょ」という答えが多いのかな。

筆者の市原先生は、病気だと決める人は基本的に、本人、医者、社会の3つだと言っている。まずは「本人」。

人間は、自分が病気なのかどうかを、まず自分で判断する。より具体的に言うならば、「この先どうなるか」という未来予測をしている。

『どこからが病気なの?』文庫本40ページ

そうね、わたしもそれはする。たとえば頭痛のときは、「あ〜いつもと同じところが同じ感じで痛い。。そういえばスマホ見すぎちゃってたな」みたいに。いつもと同じということが必ずしも安心ってわけじゃないけれど、経験上、これなら病院に行く必要はないなって判断をする。つまり、経験値に基づく判断。

でももし、いつもと違う痛みだったり、頭痛以外に何か症状が出たら、いつもと同じじゃないから「放っておいたらまずいかも」という未来予測をして、病院へ行くと思う。

ただねぇ、もちろんわたしの場合はだけど、乳がんについては自分からは「あれ、変かな?」っていう未来予測が立てられなかったな。まったくの経験値外。

人間ドックで「右胸にしこりあり」で再検査判定が出て初めて、たしかに胸に消しゴムっぽい感触の何かがあるのは自覚したけど、それでも、まさかそれが「がん」だとは思っていなかった。痛みとか不快感がまったくなくて、病気かも、まずいかも、とは全然思ってなかった。

そこで、次に病気だと決める人「お医者さん」が登場する。

不調に対して本人が未来予測不能なときに必要な存在。市原先生はこの「予測不能」には2種類あると言っている。ひとつは、本人が今までに経験したことのない不調。今までの経験値に則った判断ができないから、プロであるお医者さんに任せる。ふたつめは、「未来を予測しようと思わない」パターン。本人としては不具合を感じていないから、予測もしない。自覚症状のないがんの場合は、こちらに近い。

わたしが乳がんだという病気を誰が決めたのか、といえば、それはやはりお医者さんたちだ。

(「お医者さんたち」と書いて気づいたけれど、がんの診断は診察してくれる担当医の先生だけの判断で決めるんじゃなくて、少なくとも病理医の先生の判断も含まれているはず。もしかしたら同じ診療科のほかの先生の意見とかも。なんとなくだけど、患者としては、目の前にいるお医者さんだけじゃなく、直接出会うことのない人たちも、自分を診てくれているんだって知っていたほうがいい気がする。)

お医者さんに決めてもらうのはいいのだけれど、自分としては「病気かも」っていう未来予測ゼロの状態なところで、「検査の結果、あなたは乳がんでした」って断定されても、こっちはなにせ病気っぽさをこれっぽちも感じていないから、いまいち納得がいかない、というか腑に落ちない。

もちろん、頭ではわかってる。がん怖いとか、親につらい思いをさせてしまうなとか、職場の人たちにどう伝えようとか、いろんな感情や考えが入り乱れた。

それでも腑に落ちてはいない。プロローグの回でも書いたように、体の実感が伴っていないから、体では理解できていない状態。「腑」はもともと「はらわた、内臓」という意味だから、この表現はあのときの状態を表すのにぴったりだと思う。

診断がくだると、体では理解していないまま、どんどん治療計画が立てられ、治療がずんずん進む。でもその治療のおかげで、というのも変だけど、治療によって体に起こる不具合、たとえば術後の痛みとか抗がん剤副作用による脱毛とか、を実感してようやく、心でも体でも、病気を受け止めた感じがした。最初の乳がんのときは。。

本に戻ろう。最後の病気だと決める人は「社会」。市原先生は、この場合の社会とは「医療シアター内にいる、患者と医者以外の人たち」と言っている。

社会的な生活が困難になると予想された場合に、周囲にいる人々が「患者」を病気というワクにあてはめて、文字通り患者として対処するケースがある。
・・・
医療シアターにおいては、患者以外にも複数の登場人物がおり、必ずしも患者だけが主役というわけではない。

『どこからが病気なの?』文庫本48ページ

そうなんだよね、たぶんこれのせいで、精神的にしんどい思いをするがん患者は多い気がする。わたしが思う「社会」は2種類かな。善意な人とそうでない人。

前者の場合はたとえば、治療しながら働ける・働きたいのに、「病気だから無理しないで。やっておくから」って言われるとか。善意からの言葉でも、「仕事ができないほどの病気」だと勝手に決めないでほしいって思っちゃう。

漫画『フラジャイル26巻』に出てきた、喪失体験ゲームを思い出した。机の上にはそれぞれに、「お金」「健康」「家族」「役割」「未来」と書かれている5枚の紙。余命がもう限られている患者として、どれから捨てていくかというゲーム。看護師の乾さんに持ちかけられ、朝加先生が患者役として捨てる紙を決めていく。ゲームの途中で乾さんが「わたしならこうする」と言って「役割」を捨てそうになったとき、朝加先生は「勝手に決めないでください」と怒って立ち上がる。これと同じだと思う。

乾さんが「カードを捨てる順番はその人そのものだよ」と言っているように、何ができて何ができない病気なのか、この後どんな生き方ができる病気なのかは自分で決めたい。

後者は悪人というわけではないけれど、無自覚の悪意というか残酷さというか。病気、ましてや「がん」だと死のイメージもあって怖いから、忌み嫌って、穢れとして扱うように遠ざけようとする人がある程度はいる。「病気なんだから」ってこちらに配慮しているようで、実は自分が怖いからだけのくせに。わたしの病気を、自分が逃げるための口実にしないでほしい。でも本人としては、こっちを思いやっているつもりなんだよ。それがやっかい。

あーなんか文句っぽいまま終わっちゃうけど、第1章-1は以上。文庫本では約16ページの範囲。残り150ページ以上。対話はまだまだ続く。



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