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短いお話

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1000文字に行くか行かないかの超短いお話。
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記事一覧

【ショートストーリー】Vol.12 誰でもない君に伝えたいこと

ドラムが上手に叩けているかどうかよりも、クロールがうまく泳げているかどうかよりも、たまごやきがうまく焼けているかどうかよりも、隣に誰かいて欲しいって思ってない? 突然床に寝てみたり、生まれて初めて一睡もできなかったり、今年は何か一味違うのでは?初めての事が多かったりして。 思わぬところで、たとえば部屋の隅っこに光と影が作り出す直線の芸術的な美を感じたりして。 「青」の世界について考えたり。青という言葉が持つ世界について考えたり。青が好きな理由を考えたり。青が好きなのは何でだ

【ショートストーリー】Vol.11 いつかの書きかけの記憶。

めちゃくちゃ手が綺麗と思った。これはめちゃくちゃ綺麗なんじゃないかって。誰かに褒めて欲しい。カメラで手を写してみようかとも思ったけど、台所の明るい蛍光灯の下で改めて見たら、なんてことないただの普通の手だった、そうか、それが36歳の手かと思った。 ホタルイカの目玉を取りながら、後ろで流れている震災10年のニュースを聞く。 あの時私は、揺れるビルの中で「えっ、死ぬ?」と思ったのだ。10階のビルの一室、おそらく耐震構造のせいでとてつもなくそのビルは揺れ回ったのだ、遠心力に従って

【ショートストーリー】Vol.10 推しの推しの話は推しということで。

「好きな人って、追いかけてるからいいんだよね」 真由美ちゃんは独り言のように少し遠くの宙を見ながら呟いた。 「ふむ」と心の中で思って声には出さなかった。いま真由美ちゃんが言っている、<好きな人>とは誰のことを指しているんだろうかと。 僕は君の彼氏であって、<好きな人>ではないんだろうか? 真由美ちゃんに追いかけられている気配を感じたことがない。どちらかと言えば、僕が追いかけている。 僕は真由美ちゃんが好きだ。真由美ちゃんはどうだろうか? いたって普通、見た目も中身も平均値

【ショートストーリー】Vol.9 袋はいりませんので、愛は欲しいかもしれません。

「袋入りますか?」毎日行くコンビニで、毎回聞かれる。相手も仕事だから仕方がない。毎回首を横にふるしかない。声を発することが苦痛なので。逆に聞かれないと困惑するかもしれないし、こちらが意思表示をすれば相手の迷惑になるかもしれない。それならばこのままでいい。 しかし、実に臆病である。 ぶつからない、怒らない、何ごとも穏便に。言葉を飲み込む。受け入れる。キャパシティとは?その心持ちを他人に説明することは不可能だ。そして代わりに切り捨てる。価値観にそぐわない場合は去る、何も言わず

【ショートストーリー】Vol.8 深夜2時、海底にて。

年月に対して少しばかり、語りたくなった。 深い時間は決まって、俺はアルコールという海の底にいる。今日は何曜日だろうか。思考がゆっくりと沈んで、意思とは別に考えるつもりのないことまで考えている、それが日課だ。 一つ、君への想いは執着だ、と思う。 でも、改めてその考えに行きつくのは、やはり納得感があるからだと。 忘れられずにいるのは、執着なんだろう。 ずっと正気じゃない時のマボロシを追いかけている。それで、マボロシを作った方も、マボロシを作った覚えがないんだろう。 何かの想

【ショートストーリー】Vol.7 マッチョの本屋さん

うちの近所に小さな個人経営の本屋がある。松井書店。 わたしはいつもそこで本を調達していた。 ある日、いつものように松井書店の手動ドアを引いて中へ入ると、そこには、どうみてもこの場にミスマッチな男がレジに座っていた。白のランニングが張り裂けそうな筋肉むきむきマッチョマンが、真剣な顔をしてダンベルをゆっくりと上げ下げしていた。 わたしは、なにか見てはいけないものを見たような気がして、とてつもない罪悪感と後悔にさいなまれた。 入り口でとまっているわたしを見つけたマッチョの男は、

【ショートストーリー】Vol.6 菊池さんと言う人

彼は、菊地さんと言いました。 彼は、スキーがまったく滑れませんでした。初めて出会ったのは、友だちとスキーに行ったときのことでした。菊地さんは、するするとまた裂きをしたかと思うと、すってんころりんと麓まで転げ落ちていきます。おもしろ半分で下まで軽い身のこなしで滑っていくと、菊地さんは、「まいったなー」と空を見上げて大の字で寝転んでいました。 わたしは「大丈夫ですか?」と手を差し伸べると、菊地さんは「まいったなー」と言って手を伸ばしました。 お昼を食べているとき、友だちのゆかり

【ショートストーリー】Vol.5 このヤッカイナモノの置き場所

ミチ子は、この何やらヤッカイナモノの置き場所に困っている。 仕事がうまくいかなくて落ち込んだこと、職場のみんなでボーリングに行ってからお洒落で素敵なバーに行ったこと、帰り際に少しさみしくなったこと、終電を逃したこと、ヒールのサンダルで歩いたら足の指が痛くなったこと、泥のように眠って起きたらベランダの前の木が切られて視界がひらけていたこと、日曜日、仕事を頑張ってそのあと映画を観に行ったこと、映画を観て生きることとか死ぬこととか考えたこと、死ぬことを考えて怖くなったこと、嫌な仕

【ショートストーリー】Vol.4 ひと口で二度むせる女

彼女はひと口で二度むせる女だ。 僕は、そのことを最初から知っていたのに誘ってしまった。彼女をむせさせたい衝動と、坦々麺でむせたらどうなるのか知りたい、という好奇心に負けてしまった。自分で自分が卑怯なやつだと思ったが、しょうがない。この気持ちは止められないのだから。 「今度、僕と坦々麺を食べに行かない?」という誘いに、彼女は一瞬動揺したかのように見えたが、きゅっと笑顔を見せ、すました顔で「ええ、いいわ」とOKした。 天にものぼる思いで、僕は心の中で大きなガッツポーズを決めた。

【ショートストーリー】Vol.3 タコワサ彼女

「私、世界一のタコワサを作るわ」 ぼくはなんて声を掛けたらいいのかわからなかった。もう、2年近く付き合っているのに、彼女のことがいまだつかめない。情けない。彼女に押される形で付き合い始め、気がついたらぼくの部屋に彼女が住んでいて、気がついたら犬が二匹も。フラワーアレンジメントにはまったときには、地方までいっしょに花を買いに行かされた。籠編みにはまったときは、籠編み教室にいっしょ通わされた。男?ぼくひとり。このほかにも、彼女に付き合わされた趣味と言うのか、それは数知れない。ぼ

【ショートストーリー】Vol.2 真冬のソフトクリーム

「いろんなことあったけど、全部忘れた」 そう言う高橋くんという男の子の横で、ソフトクリームを食べているわたし。なかなか絵になると思う。 「寒いなぁ」 「当たり前だよ」 ほんの少し笑いながら高橋くんという男の子は、巻いていたマフラーをとってわたしにくるくると巻きつけた。 「ありがとう」 それで、と聞きたかったけど飲み込むことにした。高橋くんは、本当に何もかも忘れてしまったのかもしれない。そんなのぺっとした顔をしていた。決して嫌いじゃない。この子のこと、わたし好きになるな、と直ぐ

【ショートストーリー】Vol.1 ある日の明子、そしてコーヒーと、松永さん。

地味に続く何かよりも、一瞬の煌めきのような瞬間的な炎の方が記憶に焼き付いているが、それすらも想い出になる瞬間はやがて必ず来るのだから。今はそれで良い。 苦しい記憶もやがて愛せる。 時が経って、時間が染み込んで馴染み、私は貴方を思い出して、何もなかったかのように思い出して懐かしくなるのだから、人間は愚かで愛おしいものだと、満たされない思いを抱えているのだから、いつも。 ワインが空になっている。 昨日も見たようなあの光景、脳裏に焼き付いている大好きな場所、何度訪れても胸が弾