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わたしには「人をみる目」がない

「人をみる目」のある人に憧れた。

その思いはおそらく幼いころからずっとわたしの中にすみついている。
どうしてもタイトルが思い出せないけれど、小学生のころに読んだ本のなかに、「人をみる目」のある女の子が出てきた。

名前はたしか、あいちゃん。

あいちゃんは、人にあった瞬間に、その人が人でなしかいい人を見分けることができて、人でなしには卵を投げつけたりするような子だった。けれどあいちゃんに認められた人は、他の大人たちからも認められるような存在になったし、あいちゃんのその能力はたしからしかった。

わたしは、あいちゃんに憧れた。
わたしも人を見抜きたかった。わたしを傷つける人と友達になりたくなかったし、わたしのほんとうを大切にしてくれる人を見抜きたかった。わたしは友達に嫌われるのがこわかった。ほんとうの友達なんてわたしにはいないんじゃないかと悩んだ。

それは10代特有のひりひりした感情だったかもしれない。だけどあいちゃんはいつの間にかわたしの心の奥の方に身を潜めて、わたしにその憧れを植えつけた。


そして20代の最近まで、わたしはどこかで人を見抜きたいと思っていた。それも、いつの間にか無自覚に。

けれど最近、そうでもないかもしれないと思うようになっている。
「人をみる目」に憧れてきたのはどうしてなのか。どうして、それに対する執着がなくなってきているのか。
その理由を探してみたいと思った。


表面的な会話をしてきた

どうして「人をみる目」に対する執着がなくなってきたのか。理由はきっと、成功体験が増えたからだと思う。


今までであれば、気が合わないかもしれない、と思った人とそれほど会話の機会を持つことはなかった。あえて言えば、持たないようにしていたところもあった。けれどコルクラボに入ってから、今までであればそれほど会話の機会を持たなかった相手と話をすることが増えた。それも、表面的な話をするのではなく、あなたはどう思うのか、わたしはどう思うのか、という会話。

表面的な会話というのは、価値観がその人のものではないもの。例えばそのコミュニティーで「一般的」とされる価値判断基準に基づいて「いい」とされる話とか、こう言っている人がいる、という話とか。表面的な会話は楽だ。とりあえず「そうだよね」と言っていればいいのだから。そこには相手の思いも見えない代わりに、わたしの思いも出さなくていい。
わたしは、人の価値観なんてそう簡単には変わらないと思い込んでいるふしがあるし、自分の思いを話してしまって、それは違うよと否定されるのがこわかった。自分のことがわかってもらえないならばそんな関係いらないとどこかで思っていた。わたしは自分の殻に閉じこもる形で、自分を保とうとしていた。
反面、表面的でない話をするのにはすこし勇気が必要だった。自分のことを理解してもらえないかもしれないし、相手の言葉に斬りかかられるかもしれない。わたしは傷つくのがこわかった。


「こわくない」という成功体験

だけどそういう会話を通して得たのは、「こわくない」という成功体験だった。第一印象とまでは言わずとも、会って数分の会話で、今までであればあきらめていた関係が、こわくなくなった。こわくなくなっただけではなく、興味がわくようになった。一見、まったく違う感性を持っていそうなこの人は、いったい何を考えているんだろう。一見、興味がなさそうな表情をしているこの人は、いったいどんなときに笑うんだろう。
そして、そんなことを考えていたのか、と思う。ああ、この話でこんなに素敵な笑顔で笑うんだ、と思う。

わたしは、傷つくことを恐れるあまりに人を見抜くことを求めすぎていたんじゃないかと思う。そんなこと、わかるはずもないのに。


それでも成功体験が重ねられるようになったのは、人と会話をする絶対量が増えたこと、1回ではなく、継続的にだれかと会話をする機会があったことが大きかったと思っている。
会話をすること。最初はあたりさわりのないことかもしれない。最初からこの人とはうまくいく、なんて思えることはごく、稀だ。
言葉ではわかっていたはずなのに、話してみなければわからないことがたくさんあるという当たりまえのことを、やっとわたしはほんとうの意味で理解しかけているんだと思う。それにまだまだわからない。わからないことをわかった気になってあきらめてきたわたしは、傲慢だったと思う。


ところで、人と継続的に話をする機会が増えただけで、表面的な会話から抜け出せるというのはすこし強引かもしれないとも思う。コルクラボという安心の確保された場所でのできごとだったために、わたしの話をしやすい環境、相手の話を聞きやすい環境にあったことも関係していると思う(そもそも醸し出す雰囲気からして話しやすい人が多いし)。反対意見であれ、それは人格の否定ではなく反対意見の提示として捉えられる土壌も関係しているだろう。とはいえ、「こわくない」という成功体験を重ねられたことが、わたしにとっては大きかった。


そんな中の日常で

そんなことをふわふわぐるぐると考えていたこの数日、コルクラボの外で、わたしのこの仮説はどうやらほんとうらしいと思わせてくれた印象的なできごとがふたつ、あった。

ひとつめは、4月になって新入社員がわたしの職場の見学に来たとき。ひどく不機嫌そうな、疲労困憊のような顔をして、こちらの話を聞いているのか聞いていないのかわからないような新入社員にであった。以前のわたしなら、失礼な人だ、くらいに思って相手にしなかったと思う。その関係をその瞬間に、あきらめたと思う。だけど、この人の興味はいったいどこにあるんだろう、と思って話をしてみると、出てくる。さっきまで疲れた顔をしていたのが嘘みたいに、きらきらした顔で自分の言葉をはなす。こういう言葉を、聞ける人でありたいと思った。

もうひとつは、ある知り合いとの話。
あまり詳しくは書けないけれど、表面的な話をすることが多い仲のいい人だった。ある会話の中でふと、こぼしたその人の言葉を、わたしは忘れないと思う。



「人をみる目」なんてなくていい。
わたしは話をすることで、相手のことを知っていきたいし、わたしのことを知ってもらいたいと思う。
それにどっちにしたって、わたしは「人をみる目」なんて持ち合わせていないらしい。


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