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" The Sense of Wonder "

レイチェル・カーソンは言った。
『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。』

帰り道、ときどき空を見上げる。空はそのときどきで違う顔を見せる。
あるときは雲ひとつない夜空でオリオン座が輝いていて、またあるときは示し合わせたようにちょうど雲の間から顔を覗かせた月が、辺りを虹色に染めていたりする。

そうしているとたいてい、空を見上げる余裕があってよかった、と安堵しながら、あんまり夜は好きじゃないな、と思い当たる。
地元では夜の暗闇が好きだった。こっちに来てもう5年以上たつけれど、なぜだか夜があまり好きになれない。気がついたときには好きではなくなっていたから、窓の遠い職場の席に慣れきった私は、夜よりも太陽の光を恋しくなったのだと思っていた。でもきっとそれは違う。私はただ、東京の夜が好きではない。

そのことに気がついたのはつい最近。地元に数日帰ったとき、バス停から家に向かう道を、トランクの音をごろごろと響かせながら歩いていた時、私は不思議な感覚に襲われた。そして思わず足を止めてあたりを見渡した。

よく知った一本道、静寂、苗字だけ知っている近所の家々と少し増えた空き地。暗闇の中にぽつぽつとオレンジ色に灯る街灯、時折遠くに聞こえる大通りを車が通過する音…。

やっぱり夜が好きだと思った。その暗闇にはどこか深みがあって、濃厚で、温度があったと思う。


その時はなんだかそのことで胸がいっぱいになったのだけれど、後から思い返すと、だからなんだと思う。星や月が綺麗だからなんなんだ、地元の夜が好きだからなんなんだ。

このことに限らず、生活の中には、だからなんだと問いを発すれば答えに戸惑う感情や感覚がたくさんあるんだろう。映画を観ては涙して、小説の世界に入り込んでは夢中でページをむさぼる。私はもともとそういうものが好きだった。だけどいつの日からか、ただただ感動しているだけの自分に対して、焦燥感みたいなものがむくむくと膨らんで、夢見心地の少女をさすがに卒業しなきゃいけないだろうと思うことが増えていった。

そんなときに出会ったレイチェル・カーソンの言葉は私に響いた。


『内面的な満足と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を』

わたしは、子どもにとっても、どのように子どもを教育すべきか頭を悩ませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして身につけた知識は、しっかりと身につきます。(略)たとえば、子どもといっしょに空を見あげてみましょう。そこには夜明けや黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空にまたたく星があります。子どもといっしょに風の音をきくこともできます。それが森を吹き渡るごうごうという声であろうと、家のひさしや、アパートの角でヒューヒューという風のコーラスであろうと。そうした音に耳をかたむけているうちに、あなたの心は不思議に解き放たれていくでしょう。                    
                  「The Sense of Wonder」 より

海洋生物学者で「沈黙の春」の著者であるレイチェル・カーソンは恐らく、自然との関わりにおいてこの文章を綴ったのだろう。だからこれは拡大解釈なのかもしれない。それでも、私がこの本から感じたのは、こういうことだ。

感性を大切にすること。琴線にふれたなにかとじっくり向き合うこと。
それはきっと、何かに役に立つようには見えず、ただ、そこに存在するだけのように見える。


感じることは、役にたたない。少なくとも、すぐには。
感じたことで興味を持って、それが自分の知識や経験として蓄積されていくことは素晴らしい。レイチェル・カーソンも言うように、そうやって得られた知識は、ただ教えられた知識よりも、しっかりと身につくことは想像できる。
でもそれよりもずっと大切なことは、きっと役に立つかどうかという議論の範疇にない。ふと、なにかの琴線にふれたものをぐっと味わうことも、それを足場に新しい世界に踏み出すことも、日々を豊かにしてくれる。自分が役に立つ人間だから、だれかに認められるから世界は美しいのではなく、美しいと感じる心に気がつけるから世界は美しい。「感じる」ことそれ自体に、価値がある。


だからなんだと思うけれど、それでいい。もしかしたら、ありきたりな考えなのかもしれないけれど。自分の言葉で刻むことに意味があったんだ。
ほんのすこしの感覚のうごきに耳を澄まし、よろこびをいっぱいに感じられる人、そして、背を向けたくなるような感情も、静かに見つめられる人、そういう人間でありたいなあと思う。

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