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有限である人生の要素

お金を使うということは、時間を減らしていることなのではないかと、キッチンでお湯を沸かしているときに、急に閃いた。慌てて、書き留める。

「お金を使うことは、時間を使っていることと同義かもしれない。」
「お金が減っちゃうことは、時間が減っちゃうこと。」
「お金を使うことは、時間を減らしていること。」

手当たり次第にメモをしながら、考えてみた。

よく聞くのは、逆の話で「時間をお金で買う」だとか「効率重視でお金をケチらない」だとか。わかりやすい例で言えば、家事の時間を短縮するために最新の家電を購入して使う、などがあろうか。全自動洗濯機は家事を担当する人の労働を大幅に代行してくれる。自動食器洗い機、炊飯器、電子レンジなども近いものがあるだろう。電車やバスや徒歩を駆使しで移動するのではなく、家までタクシーをよんで目的地に直行する、というのも似ている部類に入れられるだろうか。

かくいう私も昨年夫にドラム式洗濯機を購入していただき、大変助かっている身なので、お金で私の体力(一番はこれ)と時間を解決してもらい、本当に感謝感激しているし、便利なものにお金を払うのは、必要な時には的確に支払うべきことなようにも思っている。

今日はそれとは全く別のことで「お金を使うことは、時間を減らしていること」という考えが突如頭の中に降ってきた。

相反する話である。
お金を使うことで、時間が確保されるという事実もある。しかし、今日感じたのは「お金を使うことは、時間を減らしていること」なのではないかということだから。

今日感じた減っている時間というのは、まるで人生の蝋燭のようなものだ。ドラム式洗濯機で増えた時間というのは、今現在今日の24時間内での「物質的」な時間だ。時間は物質ではないので、変な話なのだが、この時短家事で捕獲された時間を私は極めて「物質的」であると感じた。

対して、お金を使うことで減った時間は「生命的」である。つまり命の時間。
命は、確かに、多分、今私は持っている。でも物理的に目に見えるものではない。頭、顔、手、体、足、どれも目に見えるし触れるもので、それらに含まれる心臓が24時間休まずに動き、24時間途絶えることなく呼吸が続く。けれど「生命」はどこにあるのだろう。生命を証明するのは、間接的な証拠でしかない。生命「体」が、生きている状態はこれこれこうなっていれば、生きていると言えますよ、という状況証拠を集め、結果、「ああこの生命体は今生きている状態ですね」となる。しかし生命そのものがどれなのかを指ししめすことは出来ない。

その物理的にこれですと言えない生命というものを、お金を使うときに減らしているのではないかと思うのだ。

つまり冒頭で閃いていた
「お金を使うことは、時間を減らすこと」
というのは
「お金を使うことは、生命を減らすこと」
にそっくり言い換えることが可能だ。

さて今日は急に結論から閃いてしまったので、道のりを逆に戻るように辿ってみることにする。お金は、労働の対価として獲得できるものの場合が多い。自分自身が労働した対価だったり、お金そのものが何らかの動きをして(投資など)増えていく場合もがある。投資にしたって、自分が投資をしようと決めて動かなければ始まらない。つまり人間の何からのアクション、実質的な行動に伴っているのが現代社会におけるお金というものだ。この人間の行動というものは、生命があるから可能になっている。(お金と行動と生命の切り口から考えているので、今回は「法人」のような仮想人格的なものはちょっとややこしいので除外する。)

行動と生命とお金がつながり、行動には時間が伴う。
行動、動きによって生まれたお金を使う。
行動は生命があるから可能となる。

生命があるから行動ができる。行動があるからお金が生み出される。そのお金を使うことは生命を使っていることに非常に近い気がしている。

そんなことを言っていたら、怖くてお金を使えなくなるじゃないか。そうなのだ。お金に対する恐怖心や抵抗感などは、もしかしたらこの「生命」との結びつきに関連しているのかもしれない。

よくスピリチュアル界隈では「お金のブロックを外しましょう」だとか、「お金は無限です」とかいうセリフを聞くのだが、よく聞いていけば、それはそれで確かにねと思う部分もある。しかしもしや、そもそも「お金のブロック」つまり恐怖感だとか抵抗感のようなものは、過去の経験からの思い込みだとか習慣というよりも、命を守ろうとする本能的な何か、なのではなかろうか。

人は病気になったり怪我をしたりしたら、体を横にして休んだり、睡眠で体を何とか修復することに集中させようとしたりする。それは誰が教えたわけではなく、体が勝手にそうなるように仕組まれているシステムとも言える。もちろん知識として睡眠や休息の重要性を学び、その上で実践するということもあるだろうが、本質的には命を守る本能に基づいた行動のはずだ。食事もしかり。本能的に命を維持していこうというセンサーが反応して空腹感があったり食欲があったりするのだろう。

「生命」があるおかげで可能となった「行動」が生み出した「お金」。
一周まわると文頭の「生命」と文尾の「お金」が出会ってメビウスの輪になる。
「行動」のために使うのは「時間」である。

「生命」が「時間」を使って「お金」を生み出している。

だから「お金を使うことは、時間を減らすこと(使うこと)」であり、「お金を使うことは、生命を減らすこと(使うこと)」なのだ。

私たちは毎日、限りある命の蝋燭を灯しながら生きている。その蝋燭の減り方は、もともと持って生まれた分に左右されることも大きいだろうが、どんな生き方をしていくかによって変わるのかもしれない。

何が無駄遣いで何が有効なお金の使い方なのかは、人それぞれ違うだろうし、みんなが同じである必要はない。ただ、自分の中でしっかり、これは無駄遣い、これは必要な使い道というのが分かっていればいいのだと思う。

ちょっとした無駄遣いだったな、と思うような使い方をしてしまうと、気持ちが落ち込んでしまうのは、限りある命を無駄遣いしてしまったなと感じる本能からなのだろうか。お金そのものは、使ってもまた稼げば手に入れられるものだし、お金を有効に使ってより楽しい充実した命の時間を味わうのは素晴らしいとも思う。でも時々、お金を使うこと、特に無駄遣いについて考えたときにモヤモヤっとするのは、もしかしたら命を使うこと、生命を減らすこととの関係に原因があるのでは、という気がしてきた。生命も時間も使ったら稼ぎ直すことはできない。古典落語の『死神』に出てくる人間の寿命を表す蝋燭ではないが、生命も時間も一方通行で減るしかない。

長生きしたいとは微塵も思わないものの、持って生まれた限りあるものを有効に使って目一杯楽しみたいとは思う。私の親族たちは短命が多く、しかしたまに長生きな方もいて、それらを総合してみるに、いろいろと考え込まずにはいられない。長く生きたからと言って幸せとは限らないけれど。40代で亡くなっていった親族たちは、果たして人生満喫できたなと思えていたのだろうか。死人に口なし、聞くことは叶わないものの、直接の先祖たちの例から自分について学ぼうと考えてみることは出来るだろう。想像の域を出ないが、短命派のご先祖さまたちが皆、「もっと長く生きられたらそれはそれで良かったのだけれど、まあ仕方ないね、充分楽しんだかな」と思っていらっしゃったらと思うし、そう想像できるような生き方に私には見えている。

私の生命という物語にも最終章があって、結末があるはずだけれど、その最後のページを今から途中をすっ飛ばして読むことは叶わない。でも最後のページは必ず存在する。そして全体の本の中で今序盤なのか中盤なのか、次章がもう最終章なのかも、知ることは難しい。ならば、もう次の章が最終章ですよと明日気がついても、後悔のないように、常に最終章の1個前にいると思いながら、人生を楽しむしかない。

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