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楽しいことで満たす

1日は24時間しかない。人の一生は長くてもおそらく90年前後だ。
その限られた時間をどのように使うかは全て自分で決めることが出来る。

私の父は45歳の時に癌が見つかり、手術に成功して転移もなかったものの
49歳の春に突然亡くなった。深夜に発症した急性心不全だった。

私の恩師の1人は東日本大震災で帰らぬ人となった。

私の別の恩師の1人は長い闘病の末、若くして亡くなった。

私の隣の席に座っていた同級生は、持病で大人になる前に亡くなった。

他にも挙げればまだまだある身近な人たちの死は、生きていることと、いずれ誰にでも必ず訪れる死の時について、私にいつも「考えよ」と何かを提示してくる。

どう生きたいかは、どう死にたいかでもあり、
どう死にたいかは、どう生きたいかでもある。

まるで教科書のような生き方のように見えた私の祖父は、死に方さえもある一つの参考書のように、あまりにも完璧に自分の最後を決めて去って行った。
けれど一見幸せそうに見えた祖父が最後に言った言葉は、頭痛に苦しみながらお守りを握りしめ絞り出した「助けてください」という神への切実な祈りの一言だった。そしてその数分後、祈りが届いたかのように穏やかな呼吸と共にスッと息を引き取って行った。
素晴らしく見えていた彼の人生は、もしかしたら人知れず穏やかに戦い続けた修行のような道のりだったのかもしれない。

私はどう在りたいだろうか。
折に触れて考えるのだが、なかなか答えは出ない。もしかしたら死の直前まで答えなんて見つからないのかもしれないし死んでもなお「やっぱり分からなかったなあ」と感じるのかもしれない。

ただ一つわかったことは、生きていられる時間には限りがあるということだ。
どんな過ごし方をしていたとしても、その限りある時間は確実に減り続けている。

ならば、自分にとって否定的な感情を持って過ごす時間は、なんともったいないことかと感じられる。そんな暇はないのだ。限りある時間を冷静に俯瞰した時、素敵なことや楽しいこと、嬉しいこと、ワクワクするような何かを感じる時間ですら十分にあるとは言えないのに、そこに反対のネガティブな何かを割り込ませている場合ではない。

生きていると不安に思うことや、辛いこと、もやもやした気持ちや、ため息が出るようなこともある。けれどそれはなるべく短時間で、次へと切り替えて行きたい。だって残り時間が着々とカウントダウンしているのだから。

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