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近藤譲フィルム&トーク



オペラシティ主催、コンポージアム2023
近藤譲フィルム&トークに行ってきた

前半は近藤譲が「普通の」生活を送りながら作曲家としてどのような姿勢で生きているかを切り取ったドキュメンタリー映画の上映
後半は近藤譲と哲学者・小林康夫との短い対談

500円という破格の入場料
とてもいい企画だった


学生という立場を離れた途端、社会構成員であることを嫌でも自覚させられる現代社会

社会にとってのわたしは、構成員の一部でしかない

その構成を乱さないよう、社会のために、感情や思考を他人と同じように受けとれと要請され、感情や思考を他人に伝わるように言語化することを求められる

「共感」を迫られる日々に、わたしは失われていく

本当に生きていると言えるのだろうかー


近藤譲は、自身の作曲行為を「世界と私の境界の出来事」と表現していた 

▼散歩をするように、非目的論的に作曲をし
自分の内側(自己)にあった音楽を自分の外側(世界)と「共有」することこそ、コミュニケーションである

▼自己の過激さを持ち続けながら、自然に存在することにこそ芸術の可能性がある

マクロ視点(社会)で世界を捉えていこうとする「政治」
そのシーソーの反対側にいるのは「芸術」なのではないか

ミクロ視点(個人)から世界を捉えようとする「芸術」は、少なくとも日本においては宙に浮いている状態が続いている

共感と共有
社会と個人
政治と芸術

それぞれのバランスを取ろうとする


わたしのやりたいことは共感のため自己表現のではなく、共有のための自己開示

人を〇〇させるということに嫌悪感を抱いてしまうわたしにとって、今の時代に職業演奏家として生きるのは難しい
上手/下手の価値判断の対象になって命が脅かされるような現場には関わりたくない

これは自衛かもしれない、けど

演奏には、テクニックとして消化できない「余白」を共有できるような芸術性があるはずだ
演奏行為の芸術性について考えることこそ、大きな軸の形成に繋がると信じて生きたい

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