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自分の声を聴く。

どれほど簡単でどれほど難しいだろう。自分とはなんだろう。自分の声とはなんだろう。わからない。わかるわけがない。ただの細胞の塊で、宇宙からみれば蟻と大差ない。うじゃうじゃいる。けれど、私たち人間には自我が存在し、自分がいる。自分の声とは、私がどうしたいという想い。思い。小さい頃に、頭の中をサトラレてしまうドラマがあった、あの時、地味に心配だった私。そのおかげで、無、という感情も覚えた。

なぜ難しいのか。自分の声のように親からの期待や世間でのイメージを私の声と履き違え、こうしたほうがよいとか、裏切らないための演技、演技がいつの間にか自分の声になり、本当の自分の声が冬眠する。そうすると、何が起こるか、冬眠から目覚めてきたときに、そんなの私聞いてない、と反発し、本来の私はこうだとか、こうじゃないとか、自分の声というものが何かわからなくなる。

では冬眠を防ぐために、眠らせない。栄養満タンおなか一杯冬眠Readyにさせないために、適度に自分のために私は生きていると、思い出させる必要がある。ということで、誰かじゃない自分について、自分でよく考える。私は生きている、じゃあなにしよう?なにしたいではなくてもよい。暇つぶしだからなにしよう。ちょっとこれ好きかもしれない、なんで好きだろう。これだけで自分は冬眠に入らない。

本来は自分は冬眠に入らない。なぜ、冬眠に入っていると気が付いたのか、自分と他人の比較。比較からは何も生まれない。でもみんな比較する。比較して嫉妬するということは、自分の声を聴けていない。聴いている人ならなりたい自分になっているから、嫉妬をすることもない。みんなそんなもん。ただ、でも、少しでも自分がぐるぐる紐に巻かれて、アルミホイルに包まれて、サウナに入れられていたらSOSを見逃さないでほしい。

見逃すと、最近よく見る火。燃えてしまう。燃えないように、目を見張って、よく見て、よく聴いて。取り返しのつかない前に。

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