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約束の行方

ケンジと出会ったのは下北沢zooでの友達の紹介だった。端正な顔立ち、長い睫毛、少し痩せ過ぎの体、スラリと伸びた手足。暫くして仕事が忙しくなったので僕は彼から距離を置く様になった。

ある日朝礼で店長が新しいバイトを皆に紹介した。よくある事だ。朝礼が終わると彼はおずおずと歩いてきて大変驚いた様子で「僕のこと覚えてる?」と。ケンジだった。45kgしかなかった体は少し肉が付いて髪も伸びていた。二人とも再会を讃えあった。

僕ら二人はアセクシャルだった。お互いに付き合っている女性が居たが、僕らは肉体的な深い接触に常にある種の嫌悪感を抱いていた。そんな嫌悪感についての共感からお互いに惹かれあったのかもしれない。彼の部屋は清潔で居心地が良かった。一つのベッドで寝ていつも僕らは「おやすみ」と言って静かに眠りについた。僕らの関係はプラトニックでラムネ瓶みたいに青く甘く脆くてどこまでも透き通っていた。

ある時、正社員として本社勤務をしないかと打診を受けたが彼は断った。彼は非常に有能であったが頑なに正規社員となる事を断り続けた。結果、彼は退職に追い込まれた。

ある日、彼は実家に帰ると言い出した。そんな予感が無いわけでは無かったがあまりにも突然だった。彼は誰よりも東京に詳しく、誰よりも東京人然としていた。そんな彼と実家の田舎はあまりにもかけ離れているように思えた。

そして、実家に帰って数年後。彼はうつ病に罹患した。

僕らはたくさんの約束を交わした。二人だけで旅行に行こう。二人で赤坂の老舗の蕎麦屋に行こう。二人で音楽レーベルを立ち上げよう。二人でお店を経営しよう。どちらか先に死んだら葬式ではこの曲をかけよう。

鬱になった彼の微笑みを湛えた「死の予告」は突然だったが、いつもの冗談だと思っていた。

今さら。何もかも終わってしまったことだ。それでも僕は記しておく。記さないではおけない。「君は治る」「僕が助ける」「君が死ぬなら僕が先に死ぬ」僕の全ての言葉は空虚だった。勿論、病院に連れていくつもりだった。

彼の親御さんが「病院連れてくから待ってて」と。僕は急に怖くなった。また電話するよと言ってから僕は逃げた。何故かわからない。

その3日後、彼は旅立ってしまった。

納骨後、僕は先方の親御さんからも逃げるようになった。一体どの面下げて彼の思い出話なんかできる?後悔している。僕のせいだ。借金して旅費を作ってでも彼の実家に押しかけて彼を病院に連れていくべきだった。

彼は僕をあてにしていた。僕だけが彼を助けられたはずなのだ。
ケンジくん。
ごめん。
いつかまた向こうで会おう。
君の好きだった曲をききながら眠るよ。

「おやすみ」

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