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桃を煮るひと/くどうれいん

この頃、自分の食べ物に対するスタンスが雑になっている気がする。
というよりも執着がそこまでないのではないか、と。

自分でご飯を作るのは好きだけども、何を作ろうか考えるのを諦めていることが多い。
最近のご飯を振り返ってみても、夜は奥さんが作ってくれる機会が多かったり、昼は外食に行ったり。

外食が悪いというつもりもないけれど、ちゃんとしてた頃は、気候や当日の体調も踏まえて食べログやGoogle mapでお店を調べていたのに、今では思考停止で「えいや!」とお店に入ることもしばしば。
それが悪いことではないけれども、なんだか自分の中で消化不良を起こす。
「もうちょっと頑張れよ自分」と。

そんな折、手にしたのがくどうれいんさんの『桃を煮るひと』だった。

くどうれいんさんが書いた食にまつわるエッセイ集の第2弾。
前作の『わたしを空腹にしないほうがいい』もふとしたきっかけで読んでみたら、面白さに飲み込まれてしまった自分がおり、今回も意気揚々と読み始める。

別に丁寧な食事を描いているわけでもなく、くどうれいんさんと食のエピソードが淡々と書かれている。

キャベツとレタスの違いを聞かれて、「ぶん投げたときに遠くまで飛ぶ方がキャベツ」と答える友人の奇怪なエピソードもあれば、祖父の葬式のときに差し入れられたおかずに関するエピソードもあり。
緩急自在で、どこから球が飛んでくるかわからない内容で飽きが来ない。

それなのに、自分の身近なエピソードがほとんど。
もしかしたら、これを読んでいる自分にも、くどうれいんさんのような語彙力・視点がないだけで、「食」にまつわるエピソードはあるのかもしれない、とふと思わされる。

くどうれいんさんの他の著書(『虎のたましい、人魚の涙』だった気がする)で、こんな↓ようなことが書いてあった気がする(超意訳)

「わたしは何も話すことがないですから」といって謙遜して自分の話をしたがらない人に対して、そんな遠慮することなくどんな些細なことでも話を聞きたいと思っているよ。

このことを思い出して、食に対して雑になっている最近の自分に対して、「雑でもいいじゃないの。雑になったとしてもそこで食べた事実は事実なんだし、そこで感じたことを反芻することの方が大事なんじゃない?」とちょっと心持ちを改められた気がする。

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以上、考えがまとまらず、オチもないただの雑文です。

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