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【読書感想】『シャーロックホームズの凱旋』(森見登美彦)

そこまで森見登美彦作品に触れてきたわけじゃないが、整理として。

森見作品は
①ダメな大学生が妖の京都で七転八倒する青春作品
②虚実入り乱れる世界観で読者の頭を溶けさせる作品
のパターンが多いかと思っていたけども、今回は圧倒的後者だった。

「シャーロックホームズ」とか作品名に入るくらいだから、原作を絡めてくる換骨奪胎な作品にするんだろうと思っていたら案の定。
(丁寧すぎるくらいに原作を拾っていて感心する。私、そんなに読んだことないけど。ユダヤ人の小物商から買ったストラディヴァリウスのバイオリンが、東寺のガラクタ市で買われたことになっていたり。ここらへんはもりみーワールドって感じ)

読後に思ったのは、タイトルを『シャーロックホームズの凱旋』というよりは、『ジョン・H・ワトソンの凱旋』もしくは、『森見登美彦の凱旋』にしてくれ、、と。

そのくらい、作品を創り出す者に焦点が当たっていたなぁと思う。

〜〜以下、ネタバレ含む〜〜


虚実入り乱れる世界での観測者

この世界で語られる二つの世界。
①ヴィクトリア朝京都
②ヴィクトリア朝ロンドン(と便宜上呼ぶことにする)

当然、コナン・ドイルの産み出した世界は②。
だが、本作では①の世界がスタンダードなものとして、最終盤まで語られる。

それどころか、物語の最終盤において、①の世界は、ヴィクトリア女王により以下のように語られる。

「むしろこの世界の方が幻にすぎなかった。もしもあなたたちが無事に帰ってこなかったら、すべてが夢のように消え去っていたことでしょう」

「この世界」は、ヴィクトリア朝京都のこと。
そして、ヴィクトリア女王ですら、ロンドン世界でのワトソンの働きを

私は見守ることしかできないのですから。

と語る。
〈東の東の間〉が並行世界への入口となっている状況であったとはいえ、ロンドン世界でのホームズ奪還劇は女王ですら関与できない事柄として描かれる。

もうここからは私の無理矢理な解釈でしかないが。

作中では、物語の「作者」という存在がとりわけフォーカスされている。
物語の作者のことを、作中で言及する時点で、あまりにもメタすぎるが、調べれば森見登美彦の『熱帯』も似たような構成と聞く。
(読んだことないです。これから読みます。。)

作者なくしては、物語が世間に流通することがないことを。
作者の匙加減如何で、世界観の異なる作品が産み出されうることを。
いずれも、ストランド・マガジンの騒動を通じて伝えてくれる。

そして、この『シャーロックホームズの凱旋』の作者・森見登美彦は、自身が産み出したい世界の語り部をワトソンに託している。

そのワトソンが、メアリの生きている世界を所望したから、ドイルが描いたロンドン世界よりも、数奇な京都世界が物語の舞台に選ばれた。

もはや、『シャーロックホームズの凱旋』におけるワトソンは、ホームズの記録者という立場を超えて、どちらの世界線を選択するかの権利をも持つ『シャーロックホームズの凱旋』という作品の神なのだと思わせる。

作品における「観測者」という立場は強い。
だからこそ、『アクロイド殺し』のような作品も産まれる。

虚と実の世界。
虚実の狭間<東の東の間>

そもそもの構成として、
・虚の世界(京都)の住人であるワトソンが、仮想対象としてのロンドンを描く
・しかし、描かれた対象であるロンドンは、ヴィクトリア朝京都という虚に対して、現実のもの。
・だが、そのロンドン世界も、ドイルによって創られた虚の世界
という虚実入り乱れた構成となっている。

その虚実を繋ぐシナプス的存在として〈東の東の間〉が作中に登場する。

〈東の東の間〉がマスグレーヴ家によって開かれたことにより、虚実世界の相互往来が可能となる。
それにより、京都世界では存在し得ないロンドンを視るモリアーティがいて、別世界を精緻に描写できるワトソンがいる。

〈東の東の間〉で象徴的な存在なのが、「竹」である。
竹というのは、現世と俗世とを繋ぐ媒体として竹取物語では描かれる。

月で罪を犯したかぐや姫が地球に送られる際、送り先として使われたのが「竹」。
そして〈東の東の間〉で並行世界をつなぐモチーフとして描かれたのが「竹」。

京都の、とりわけ竹林に造詣が深い森見さんらしく、竹をスイッチとして使っているなという印象を受けた。

最後に

虚実世界の入り乱れる様が、どことなく村上春樹っぽさを感じる。

森見登美彦さんの『夜行』での世界は、「夜行」と「曙光」のパラレルワールドが描かれている。
パラレルワールドの往来のためには、何かしらのトリガーが必要になる。
それが、『夜行』では絵画(ひいては岸田道生)であった。
それが本作では、〈東の東の間〉(というより竹?)にとって変わられる。

村上春樹作品でも、いきなり虚実世界の往来が可能になるわけではなく、「きっかけ」がある。
それが「壁」であったり、「夢」であったり、「階段を登る」であったり、「納屋を焼く」であったり。

作品が破綻せずに綺麗な着地ができるのは、森見作品も村上作品もさすがだと思う(どちらも私が理解できない、、ということはあれど)

そして、森見登美彦さんの『熱帯』も似たような構図と聞き、読まなければという思いを強めた。

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