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毛布#8 『自分を黙らせないで』

Self-Isolation、自己隔離を始めて、早いもので3週間。
最初は慣れなかったけれど、人は恐ろしいほどに適応するもので、段々馴染んできた。

リモートワークにさせてもらい、平日は部屋で勤め仕事をして、週1〜2回くらいで買い物に出る以外はほとんど外に出ないという日々を過ごしている。

少しずつ、少しずつこの時間に慣れてきた。

前は朝ご飯も食べず、職場でパンを食べて、お昼を食べ、帰ってきたときには疲れ果てていてろくに自炊もしない、結構荒んだ生活をしていた。
今はそもそも外に出ないが前提。何かしていないと時間がどんどん流れていくので、なんでもかんでも書き留めるようにしている。

ついさっき自分が何を考えていたかわからなくなってしまうような覚束なさを少しだけ、インクが留めてくれるような気がして、結構精神の安定のために欠かせない。

ご飯を食べたり、時々ストレッチをしたり、部屋を掃除したりといろいろやってみているけれど、雨が降れば弱り、天気が良くなると晴れやかになり、我ながら単純で、うつろい続ける定まらない人間だ。
でもそれでいいかなと思う。
揺らいでいて、精一杯で、余裕がなく、でもこうやって生きている。
部屋の中にひとりでいると、自分が生きている実感がすごい。
これは予想外というか、まさかの新境地だった。
寝て起きて、食べて、味わって、着替えて、と、時間の一コマ一コマすべてに、自分の「生/Lives」が詰まっているような気がする。

朝ご飯はパンが食べたい、と思い、苦味のあるマーマレードで食べたい、みたいな、細かい欲求から何から全部書き留めて見ている。
自分との距離が近づいたような、そんな感じだ。

そしてそれは人生でそう何度もある時間では無いと思う。それを感じる時間にあずかれた、という感覚が正直なところある。

私は幸い在宅勤務でひきこもることができていて、会社の人の寛大さも含めて、それが恵まれたことだとわかっている。

だけど、本来ならば、安全な状態というのは、それは皆に与えられないといけないのだと思う。
それができない状況にしてしまっている今の状態は、本当に異常なのだ。

どうかこのまま終息へと向かってほしいと祈るような気持ちでいるけれど、今の感覚としては、震災直後の、メルトダウンが起こるかどうかというあの時感じていたものに近い。起こったら本当に壊滅的な被害が出てしまうというような。
感染者の推移と他国の状況、そして医療体制がすでにもう限界に近いという報道をみていると、あのとき感じていた、分岐点にいるような感覚。

コロナはもはや言うまでもなく、この社会はこのままではもう無理だったという点を、徹底的に炙り出しているようだと思う。

長時間労働、満員電車に超過密社会、一方で新自由主義でカッスカスにされた社会保障。パンデミックに耐える余地なんて元々残されていなかった医療体制。
「自己責任」の名の下に、切ってはいけない線をぶちぶちと切ってきた、その結果の今の社会。
誰かの犠牲を、「甘え」という言葉で塞いできたツケ。
割とだいぶ前からもうとっくに時代遅れなのに、他国よりも「日本はすごい」という幻想のもと、学んでこなかったツケ。

コロナが終息したからわーいあの地獄に元どおり、なんて笑えない。
絶対に新しい世界にしていきたいと思っている。

政治が自分の「生」にダイレクトに影響するという実感が出始めた人も多いんじゃないかなと思っている。

不思議なもので、Social-Distancing, Self-Isolationをすることで、人との精神的距離が近まるということがあった。
遠く離れている時にする電話のような、手紙のような。
人と会って話すということがまるで贅沢品になった今、オンラインで話したり、誰かが綴った文章を読むことは、孤絶した場所から、又別の場所へと「通信」をするような気持ちでいる。

長年の友人でも、「政治」の話をしたのはそういえばこれが初めてだったな、と思うことがよくある。

暴力と抑圧にどうしても引き寄せられていた私は、大学生の頃に戦争論や歴史修正の問題に関心があった。歴史修正という「暴力」を憎み、ナショナリズムを嫌悪し、ブッシュ政権を憎み、と今思えば何も気にせず自由に発言していた。

そんな元々めちゃめちゃポリティカルな私だけど、社会に出て、一気に「政治的」発言をしなくなった。できなくなったのだ。
「政治的なことを話すと排除される」という事が、私のなかに刻まれてしまったのだった。

それはまるで、心の中に監視カメラがついたようだった。
監視カメラは心を支配し、効果的に私を黙らせた。
その病は長く、己が大事にしていることを発言できない自分を許せず、相当苦しんだ。

今でも心の中の監視カメラはあるし、もはや私という問題ではなくて、結構多くの人の心に、「排除」を恐れる気持ちは働いているのではないかと思う。

だけど、やっぱりちょっとずつ変わってきている。個人的な体感だけど、「勇気を出して」発言する人が増えてきたように感じる。政治的な話をしてはいけない、みたいな「タブー」を破り、ひとつひとつ「封印」が解除されているような気がする。

怒るのは普通のことだし、不安になるのも普通のこと。
政治の話をするのは生の話をすることでとても自然なこと。

コロナが終息する中で、そういう当たり前のことができる社会であるようにと願う。

ひるねこBOOKSさんが呼びかけた、#CatsParade。

https://twitter.com/hirunekobooks/status/1251080482965483521?s=21

何をやっても許されると舐め切っている現政権に怒りを覚えて、普通だったらデモに行きたいと思うのだけど、コロナゆえにデモができないこの状況。

私もイラストを描いて、アップした。私と同じように、心に監視カメラがついていて、つい黙ってしまう人。不安さえ自分の中に閉じ込めてしまう人。自分なんかが発言してはいけないと思っている人。自分から沈黙を選んでしまう人。どうか自分を黙らせないでほしい、という願いを込めて、そういうメッセージにしたかった。

忘れないように書いておく。

『今こそ自分をミュートにしない。自分の怒りにも、不安にも忠実に。黙らない。分断ではなく愛を選び、誰もが生きられる社会を選ぶ。』

そういうことが、次の春には自然な感覚でできているように。
自分の「生」を大事にするように、政治の話ができているように。

揺れたり、不安に思ったり、今そんなふうに微細に揺れている人と、またどこかで繋がれるように。

そう、Don’t mute yourself.


この春が開けたら、微細で小さなうつろいも、微細なまんまで、大事なことだと分かり合える時間になっているようにと願う。





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