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毛布#20『そういうことはできるんだよ/通りすがりの師匠たち』

「生きる喜び」

今週は、新作ができた後のちょっと特殊な感覚の中で過ごしていた。

今回、新作ポスターカードのテーマになっていたのが、言うなれば「当たり前のようにできていたことへの恋しさ・いとしさ」だったので、ある意味で制作の期間はずっと、毎日を生きる中での美しいこと、生きる喜び、そういうものに思いを馳せていた時間だった。

私はそういう「生きる喜び」としての「経験」をおそらく、かなり愛していて、詩作もそういうところから生まれるのだと思う。
(私の生きてきた記憶は、そのまんま大きな貯蔵庫だったり図書館のようで、私は今まで見てきたことや知ってきたことから引っ張ってきて作品を作っているのだなあと、今回ポスターカードにしたキャンプの絵を描いていて思った。)

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「生きる喜び」というと大げさに聞こえるかもしれないけど、これまでも毛布でよく書いてるみたいに、やっぱりそれは本当に些細なことで、自動販売機でポカリを買うような感覚で、その辺から取り出すことはできる。しかも無料だ。
例えば、「今日はこっちの道から帰ってみようか」とか、本当にちょっとの工夫や遊び心で、本当はいくらでも取り出すことができるのだ。

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自販機といえば、これは千葉のお家から車でちょっと行ったところで見つけた、まさかの卵の自動販売機(美味しかったしバウムクーヘンまで売られていた)

と言いつつ

こんなことを書きつつ、私は元々は結構全部どうでもいいめんどくさいという感じで、部屋にもこだわりがなかったし、食べるものも何もかもどうでもよかった。
物事にあまりこだわりがなくて、好きなものと嫌なもののコントラストがとても淡かった。
お金もなくて、雑誌に載っているようなインテリアは自分には関係ない世界の話だと思っていたし、家具も捨てるときにお金がかからなさそうなものを選んでいたし、そもそもちゃんと目で見てもいなかったし、食べるものも食べられればよかった。

別にそれが良い・悪いという話がしたいわけじゃない。

私の場合は、それが大きく変わっていった時期があった。
それは大学時代に留学してから、外の世界に出るようになってからのこと。

「幸せ」の補給路

オーストラリア留学中、寮で同じキッチンでお米を研いでいたときだった。日本人の友人に、こういう風にすると早く研げると教えてもらっていた時に、「私は普通にガシガシ研いじゃうけど」と言ったら「それだと美しくない」とその友達が言った。他にも、何人かでゲストハウスに泊まった時、あまりにも私が適当にシーツを敷いたのを見たまた別の友人が、「ボックスシーツはちゃんとたたむ派だから……」と言った。私はオーストラリアが、誰かと共同生活をするのが初めての経験だったから、あまりにも雑な私の家事に対するその反応から、家事にも「美学」があるのだなと学んだ。そして、「美学」をもって暮らしてみんとす……とやってみると、それには、実際に自分でやってみないとわからないような喜びがあったのだった。なんというか、家事が逃げられない苦痛から、セルフケアのような日常の行為に変わったのだった。

師匠たち

誰かに教えてもらって、自分にとっての「快適さ」を学んだことは他にもある。

社会人になって、部屋に泊めてもらった時にカーテンがなくてびっくりしたら、「カーテンは嫌いなんだよね」と言った友人が複数人いる。その時まで、私は窓にはカーテンがあるものなのだと疑いもせず生きてきたのだけれど、彼女たちの、それを言った瞬間だけ妙に悟りきったような、言い切るような顔が忘れられなかった。そしてその後、なんとなく私もカーテンを取っ払い、ブラインドもいつも上まであげて暮らしてみた。そうすると、私もまた、カーテンやブラインドを締めきって生きていくと具合が悪くなる種族であることを発見した。(3人くらいそういう人を知っているけど、皆さんはどうですか?)磨りガラスも苦手だ。要は、窓から景色が見えるというのは、「幸せ」の「補給路」の確保という意味で、私にとって結構重要なことなのだった。

他にも、パンを近くのパン屋さんじゃなくて1キロ先のパン屋さんまで買いに行く年上の夫婦、部屋がホテルのように過ごしやすく整えられている人、などなど、いろんな人と出会う中で、その都度何かを習ってきたような気がする。それは、「生きやすさ」だったり、「心地よさ」だったり、「生きる喜び」の補給の仕方だったり。

だけどその人達は、私が何かをその人達から学んだなんて思いもしないだろう。
愛すべき、野生の師匠たち。

***

野生の師匠の中の二人である年上のご夫婦は、今は瀬戸内の方に引っ越されているのだけど、数年前、出会った当時の私にとっては衝撃だった。
お家にお邪魔したときに振舞ってくださった食事が、どれもまず目で見て美味しい。眼福、口福。食器も素敵で、上質で味がある。お片づけをする際に、引き出しにたくさん瓶を保存してらっしゃったのをたまたま見たのだけど、「つい集めちゃうのよね」と言いながらも、それが生活感がなくて、売れば値段がつきそうな瓶たちに見えた。他にも、張り切ってアンチョビを仕込んだり、お話ししているだけで、なんだか私も何かの学びをやっているような気がしたくらいだった。

もしかしたら、そういうことを「ゆたかさ」というのかもしれない。
あなたのいる世界からたくさん学びたい、とどうしても思ってしまうように、そのご夫婦といる世界にはたくさんの大事なことが「ゆたか」に存在した。
今でも、FBで暮らしを拝見していると、やっぱり、師匠達は生きる喜び取り出し名人のように見えるのだった。

もっというと、世界の美しさを取り出す名人のようだった。その人達の目線を通じて、私もまた知らなかった美しさを知る。そんな出会い自体もまた、恋しく愛しい、かけがえがなく何気ない「経験」なのだ。

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「毛布」を書きながら

最近、毛布を書いていて、ちょっと迷子になっていたというか、一体何を書きたいのだろう・・・?と悩むことがあった。

テーマがあるのかないのかわからないこの毛布だけど、やっぱりどうしても毎回書いてしまうことのコアに、世界はそれでも美しいし生きることは喜びだよ、という今感じている実感があるのだと、今回の新作を作ってみてわかった。

それを納得してもらいたい!とか、みんなそれを知って?ということじゃなくて、どうしても自分では留めておけなくて、書きたくなってしまうのだ。

生きづらささえも愛にしていく方法はいっぱいあるし、闇もまた闇としてちゃんと理由があって存在している。

大して大丈夫でもないのに、私は穏やかにハッピーに生きている。私にとっては、誰かがハッピーに生きているということは、なんだかとんでもなく大事なことなのだ。

穏やかに、憂いまで含めて、自分の全部でハッピーに生きること。「そんなことはできるんだよ」というように、出会った人たちから教えてもらってきたことを、私はようやく自分の身と生活で、実践しているような気持ちなのだ。

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最近出会って、仲良くなった人と長電話をした。
散々喋って、は〜話せてよかった、ありがとうございましたと電話が終わる前、何となくだけど、この人はきっと、明日美味しい朝ごはんを食べるんだろうと思った。
それを言ってみたけれど、何と答えられたか不思議と忘れてしまった。
別に、食べずに朝を抜いたりしていても全く何にも構わないのだけど、こうして出会った人たちが、それぞれの場所で、「幸せ」を取り出して、口に運んでいる。
それを想像すると、何だか私まで満ち足りてくるから不思議だ。

そう。生きる喜びについてオープンであっていいし、喜びをベースにした生き方をしたっていい。もちろん、しなくてもいい。

やっぱりそんなことを書いていきたい。読んだ人が、それでいいのかなと不安になることがあったら、まあでも安達茉莉子もそんな風に生きているし・・・と思ってもらえるように、しゃんとして毛布を書いていきたいと思う。


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