見出し画像

大人の事情⑤

 私が会社員になって辛いことはたくさんあったが、トップ5の内のひとつは信頼する上司Mさんとの別れであった。別れとは言っても一生会えないというわけではなく、異動しただけだけど。それは2年目のことだった。

 私はMさんのお陰もあって1年目に西日本エリアでMVPを獲得し、宿敵だったやりがいとも向き合うことが出来、仕事に楽しさを感じることが多くなっていた。その矢先である。Mさんは新しく出来る支社の支社長に抜擢された。しかも北九州支社の。今いるのは福岡支社。つまり、隣。なのに、その辞令を聞いたとき、私はMさんが海を隔てた外国へ行ってしまうぐらいの喪失感を覚えた。いや北九州だから嫌だったのかもしれない。日本と海外の遠距離恋愛なら耐えられるのに、近距離のような中距離のような微妙な距離だと耐えられない恋人同士のように。全く会えないなら諦められるのに、たまに顔を合わせることが出来る距離は切なさを増幅させる。私は会社の一方的な決定事項を受け入れられなかった。こんなに私はMさんを信頼していて、うまくいっていて、結果も残しているのに、Mさんを北九州へ飛ばすんですか、と。これはいわゆる大人の事情ですか、と。身分の違う恋する男女が、建前に縛られた大人たちに引き離される恋愛映画のように、私はその会社の決定の前に成す術はない。ただ、私はいじけていた。Mさんは北九州支社の体制が整うまで、福岡で挨拶回りをしたり、業務的なことをしたりしていたので近くにいたが、私は頼ってはいけない、もうこの人は上司ではないと、変に避けてしまうようになっていた。それに、やる気もなくなっていた。そんな私を見てMさんは「どこにいてもちゃんとマリオを見てるからね」と言ってくれた。私はMさんのために結果を出し続けないと、恥を掻かせてしまうと思ったし、Mさんがいなくても結果を残せる営業マンにならなくては意味がないと考えを改めた。

 Mさんとの思い出はたくさんある。

 仕事にはクレームというものが常に付きまとう。スタッフが短期間で辞めてしまうと、派遣先は引継ぎのために二重で人件費がかかるという点で、もめることがよくあった。要は派遣料の支払いを保証してほしいということだ。ただ、そのような契約はないし、派遣を使うことはそのようなリスクも伴うということの理解を深めると共に、企業としてどこまで対応するか、話し合う必要がある。どうしようもない時は上司であるMさんに同行してもらい、謝罪に行くこともあった。
 とある取引先のクレーム対応の同行をお願いしたときのこと。担当者との関係もそこまで悪くなかったし、Mさんがいることで安心していたので、クレーム対応ではあるが、そこまで重い気持ちではなかった。取引先の受付は無人で、ベルを鳴らして呼ぶというスタイルだった。しばらく待つと担当者がやってきて、話し合いが始まった。しかし担当者はウチをもう使いたくないという。私はわざわざ上司を連れて謝罪に来て、誠意を見せたつもりなのに、なぜそう言われるか理解できなかった。すると突然、担当者は「笑ってたでしょ」と言い出した。最初何のことを言っているか全く分からなかった。聞くと、受付で待っている私とMさんが談笑していた、謝罪に来る態度ではない、お宅にとって私の会社はそんなものですか、と言うのだ。確かに笑っていた。言われた通りで返す言葉がない。私は自分の詰めの甘さに臍を噛んだ。Mさんは弁解し、謝罪してくれたが、担当者を言い包めることはできず、引き下がって一旦帰ることになった。Mさんは「やっちゃったね、こういうこともあるよ」と笑ってくれたが、私はもう一回一人で謝ってきますと言うと「頑張れ!」と送り出してくれた。担当者に恐る恐る電話を掛け、もう一度話をしたいと伝え、会いに行った。1対1でコンコンと説教され、言い訳の出来ない私はただ泣きながら話を聞いていた。自分の甘さを突きつけられ、謝ることしかできなかった。ただ、そこまで言うのは期待があったからだとも言ってくれた。私にとっては庇ってくれたMさんも、怒ってくれた担当者も、どちらも有難い存在であった。歳を重ねると怒られる回数も減ってくるので、こうやって怒られた経験をしっかりと胸に留めておくことで、たまに自分を戒めるようにしたいと思っている。

 この一緒に怒られた話はMさんとの笑い話である。私がMさんに心から感謝していることの一つは、一番辛かった時に支えてくれたことだ。
 
 社会人1年目の夏に母方の祖母が脳溢血で倒れた。祖母は佐世保で一人で住んでいたので見つかるのに時間がかかり、病院に運ばれて手術をしたものの、意識がない状態が続いた。母は佐世保に帰り、つきっきりで看病していた。私は仕事を休むわけにはいかなかったので平日は仕事と家事、土日は佐世保に行って母を手伝った。しかしそのような状況であることは会社に伝えていなかった。病院のベッドで寝ている意識のない祖母を初めて見たとき涙が止まらなかった。祖母は料理が上手で、お花の先生をしていて、旅行にもよく出かける、元気で活発な人だった。だからその祖母の状態がとてもショックで、哀しくて、受け入れられなかった。福岡に戻り、仕事中にお年寄りを見かける度、「なんでおばあちゃんが」と涙をこらえる毎日だった。それに普段は母がやってくれる家事を仕事から帰って全てしないといけないのは体力的にもきつく、どんどんストレスが溜まっていった。ある夜、Mさんとご飯を食べているとき、耐えられなくなって、泣きながらその状況を全て話した。そしたら、今日は家に泊まったら、と言って、一緒にいてくれた。そのことでずいぶん助けられた。そんなことがあったなんてスッカリ忘れていたけれど、このエッセイを書いていたら思い出せた。書き始めてよかった。おばあちゃんはそれから1ヶ月ほど戦ってくれたが、ついに帰らぬ人となった。物心ついて初めて身内を亡くした。おばあちゃんを海外に連れて行ってあげたかったのに、叶わぬ夢となった。本当につらい1ヶ月だったけど、家族のこと、自分自身のこと、いろんなことを学ばせてもらった期間でもあった。

 そしてMさんは北九州支社長となり、相変わらずのパワフル営業で支社を盛り上げていた。私の次の上司は、1課の課長で(私は2課だった)、気心も知れていて、今まで通り自由にやらせてくれた。その、さらに半年後、東京から来た上司の下に付くことになったが、その人とは本当に反りが合わなかった。私は、ガン無視したり、会議中に不機嫌な顔をしたり、今思えば、信じられないような態度を取ってしまっていたので(人と向き合うと決意した私はどこへ行ったのだ)、会うことがあれば謝罪したいくらいだ。でもそれは私の矜持だった、福岡支社で数字を上げてきた私のプライドがそうさせていた。その上司(Sさん)はこれまで東京でやって来たスタイルを丸々持ち込もうとした。福岡には暗黙の地方ルールというものがあって、それぞれの営業マンが自分の裁量で判断して行動することが多かったし、上司もそれを認めていた。しかしSさんはそれ受け入れない。もちろんどちらが正解かは決められない。が、私は納得できるものでなければ従いたくなかった。例えば私が「みんなそう思っています」と言うと、Sさんは「みんなって誰?マリオだけでしょ」というような人だったので、尚更話し合うことを避けていた。私の言い方も悪かったのかもしれないが、私は意地になってしまっていたし、Mさんとあまりにタイプが違うSさんを拒絶していたこともあるだろう。それこそ、お互いを理解しようとしていなかった。一度「愛されたいなら、愛せよ」という言葉をSさんに言ったような気がする。Sさんは福岡支社になじめていなかったので、そう言ってしまった。しかしそれはそのまま私自身にも刺さる言葉であった。日を重ねるごとにコミュニケーションも取れるようなって、私が退職する頃にはだいぶん距離は縮まった(と思う)。凄くフィットする上司と、全く合わない上司、どちらも経験出来たことも、私の大きな財産となっていると思う。Sさんのことは好きではなかったが、忘れられない人物であることは間違いない。中途半端に良い人で終わって忘れられるくらいなら、とことん嫌いな人になって忘れさせないようにする、っていう手を使ったのかもね(何の話?)。

 Mさんとは退職してから5年くらい会っていなかったのだが、1年半前くらいにふと会いたくなって連絡した。LINEも知らないからEメールで送った。数日経ってメールが返ってきて会うことになった。Mさんは全然変わってなかった。私の溜まりに溜まったこれまでの報告を全部聞いてくれた。Mさんもすでに前の会社を退職をしていたが、好きなことをして伸び伸びと生きていた。次会うときまでに何か報告できることを作っておきたいと思う。相変わらず、そういう気持ちを私に持たせてくれる人だった。この人は一生、私の上司であり続ける人だと確かめられて、本当に嬉しかった。

 思ったより長くなった大人の事情シリーズ。ほぼ実話とあやふやな思い出話だけで綴っていくエッセイとなりました。私と学生時代や同僚として関わった皆様はきっとあの人やこの人の話だと分かると思いますが、本人に言わないでくださいね(笑)それではまた次のテーマでお会いしましょう!

クリエイトすることを続けていくための寄付をお願いします。 投げ銭でも具体的な応援でも、どんな定義でも構いません。 それさえあれば、わたしはクリエイターとして生きていけると思います!