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訓練

くん‐れん【訓練】[名](スル)
1 あることを教え、継続的に練習させ、体得させること。
例「きびしい―にたえる」「―して生徒を鍛える」
2 能力・技能を体得させるための組織的な教育活動のこと。「職業―」

 僕は、この春から新入社員として働いている。とは言っても新卒ではなく、第二新卒だ。表向きは留学をしていて半年卒業が遅れたことになっているが、本当は、プロレスが好きすぎて本場アメリカで見たくなって行っただけだ。その半年間で覚えたことと言えば、英語でのプロレスチケットの買い方と、技の名前ぐらいのものだ。しかしながら、英語で発せられる「技」には迫力が感じられない。英語の場合、使っている部位-つまりアーム(腕)やエルボー(肘)みたいな-にチョップやスープレックスなどの名称が組み合わさって、技の名前が構成されているため、技の説明でしかないことが多い。なにより、カタカナには音の響きが感じられない。一方、日本語では、地獄突き、原爆固め、脳天砕きなど・・・日本語の語彙の豊富さを十二分に生かした比喩表現が用いられることで、耳から入ってくる音だけでその技の破壊力や恐ろしさを感じさせることができるのである。結局、日本のプロレスが素晴らしいことを確かめるために本場まで行ったような形で、僕は帰国することになった。

 そんな僕でも思いのほか就職活動はスムーズに行き、3社受けて第一志望の会社に入社できた。もちろん留学が役立ったのではなく、帰ってきてから通った新卒者向けの職業訓練の力が大きかった。いわゆるビジネスマナーであったり、PCスキルであったりを一通り教えてくれる場である。もちろんそこに通っただけでは内定はもらえないのだろうが、自分自身の中に「訓練」というものが根付いたことが、一番の収穫だったように思う。それまでの僕は、継続して何かを頑張ったことがない人間だった。プロレスは好きだったが、頑張ったとは言えない。部活も、勉強もそこそこやってきて、そこそこの評価を得て生きてきた。そんな僕が職業訓練の中で、挨拶や名刺交換のような基本的な動作や、データ入力やコピー取りなどの単純作業という、楽しくも面白くもないことを繰り返し行い、身に付けていくことで、人生と言うのはこういうものだという、一種の諦めのような感情を学ばせてもらったのである。
 人生は訓練なのだ。継続的に練習し、体得する。生きている限りこのサイクルは続いていくのだと実感した。好きである、やってみたい、その欲求よりも前に、やらなければならないことが多いのが現実で、そのこと自体を受け入れることが自身の成長に繋がるのではないか、という考えに至ったのである。そして、面接でこの考えを力説したところ、とても反応が良く、内定をもらえたようだ。

 会社に入ってからも訓練の連続だ。まずは新人研修と言われる訓練。ここでもビジネスマナー、そして仕事に必要な様々な知識や情報を叩き込まれ、ロールプレイングを行っていく。あらゆる場面を想定して、より実践に近い環境の中で経験を積むことでスキルを上げ、現場に生かす土台を作るのである。他の会社で働いたことがないので分からないが、友人の話を聞く限りは、僕の会社は訓練が多いようだ。そして入社して半年が経つが、まだ現場に立ったことはない。しかし焦りはない。目の前にあることを全力で取り組む。訓練の中で自分は心も体も大きくなっているという実感はあった。

 ある日、けたたましく警報ベルが鳴り響いたことがある。社内アナウンスで「火事です。火事です。3階の食堂で火災が発生しました。落ち着いて避難してください」と流れた。どうせ訓練だろうと思うかもしれないが、半年の間に避難訓練は5回も行われていて、その全てに事前に通知があった。この時の通知はなく、いよいよ本番が来たかと気合が入ったくらいだった。いつもの訓練通り、一番近い非常灯のあるドアへ向かい、押さず、走らず、しゃべらず、社外へ避難した。社員全員が段取りよく避難しており、また、会社の前で部署ごとにきちんと整列をしていた。僕自身、会社に入って初めて訓練が生かせた瞬間だと思った。すると社長が出てきて、「これは訓練です」と言った。どうやら年に2度ほど、サプライズ避難訓練を行うらしい。ちょっとがっかりしたが、訓練通り行動できたことは自信にもなった。

 ある休みの日に僕は学生時代から付き合っている彼女とデートをすることになっていた。社会人になってからは忙しく、2ヶ月ぶりに彼女に会えるので、とても楽しみにしていた。海の見えるレストランでイタリアンを食べながら、お互いの近況報告をしたり、最近ハマっているテレビや歌の話をしたりして、いつもと変わらず楽しく過ごしていた。彼女がトイレに立ったあと、テーブルの上の彼女のスマホが鳴り出した。画面に出ていた名前は「ナオキ」。僕の名前は「祥二」で、スマホにはフルネームで「中田祥二」と登録していたはずだ。
僕は迷わず電話に出た。
「・・・・」何も言わずに待っていると
「エミ?今日何時に家行ったらよかと?」博多弁でナオキが言った。
「あとでかけ直します」僕は静かに言って電話を切った。
すると「祥二、次どこ行くー?」とエミはトイレから笑顔で戻ってきた。
「別れよう」僕はエミに言った。
「ちょっと?どうしたの、急に??」エミは動揺していた。
「あとでナオキさんに電話しておいて。別れたばいって」僕は会計を済ませ店から出た。エミは追ってこなかった。
僕は駅に向かう道で、高鳴る気持ちを抑えようと深呼吸をしながら歩いていた。正直、興奮していた。誤解しないでほしいが、怒りからくる感情では決してない。訓練通りに出来たのだ。ようやく、訓練を実践で生かすことができた。僕の会社では、彼女が浮気をした場合の訓練も行っていた。浮気相手と思しき男から電話があったら、迷わずに出て、「かけ直す」と告げる。そして彼女には「別れよう」と言う。「浮気をしたら即別れる」訓練通りだ。

 彼女と別れたので次の休みの予定がなくなり、久しぶりに大好きなプロレスを見に行った。しかも会社の優待券をもらえたおかげで、アリーナ1階の最前列に座ることができた。やはり日本のプロレスはいい。情緒がある、哀愁がある、趣がある。と、喜びに浸っていると、僕の注目カードが始まった。押しつ押されつつの攻防。ついに場外にまで飛び出してきた。すると僕の好きなレスラーが目の前に倒れ込んできた。僕は心配で彼の顔を覗き込むと、目がバチッと合い、「来い」と合図をされた。僕は一瞬身体に電気が走った。しかしそうすることが元から決まっていたかのように、僕はゆっくりとシャツを脱ぎ、リングに上がった。僕は今、憧れの舞台に立っている。そして目の前には倒すべき相手がいる。敵は肩で息をしていて、足元もふらついていた。僕は迷わず相手の腕を自分の首にかけ、腰のベルトを掴み、相手の体を持ち上げた。全身に力が漲っていて、人間の体は、レスラーの体はこんなにも簡単に持ち上げることができるのかと感心したほどだった。相手の体を垂直にして、一気に頭から叩き落した。そう、脳天砕きをかましたのだ。それがキレイに決まり、会場がどよめいた記憶を最後に、そこから意識が途絶えた。

 気がつくと僕は楽屋に寝ていた。僕の好きなレスラーが「大丈夫か?」と聞きながら水を差し出してくれた。それを受け取り、一気に飲み干した。自分の身体の無事を確認し、「なんとか」と返事をしたが、何が起きたのかまだ状況が掴めない僕に、

「お前、訓練通りだったぜ」

彼はそう言ってウインクした。

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