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先生バー②

先生バー①

そして翌日。
男はこの状況をこう説明するだろう。
「気が付いたら、その地下のバーの扉の前に立っていた」と。
男がゆっくりと取っ手を掴み、押して開けようとした瞬間、帰り際の客が勢いよく扉を開けたものだから、彼はつんのめる格好で入店することとなった。

「いらっしゃいませ」

今日もくたびれたジャケットを着た男は扉の近くに座っていた。
店内を見回すと、客は誰もいない。先ほど出ていった客と入れ違いの入店となった男は、カウンターの丁度真ん中の席に座った。

「いらっしゃいませ」
カウンターを隔てて、艶のある声でバーテンダーの女が言った。
「昨日も来て下さってましたよね」
こんな美しい女バーテンダーがいたことにどうして気付かなかったのだろうと思いあぐねて返事をするのを忘れていた。そんな男の様子に気にも留めず、
「どうぞ」と暖かいおしぼりを差し出した。そこでようやく男は我に返り
「どうも」と受け取り、手と、たいして汗をかいていない首を拭いた。
女バーテンダーに注文を聞かれた男は、ハイボールを頼もうとしていた。ハイボールを頼めば、昨日の話の続きが聞けるような気がしていた。それを察したかのように女は
「昨日、森さんに昔話聞かされてたでしょう?」
と少し含みのある笑いを浮かべながら言った。あのしゃがれ声の女は森という名前なのか、とぼんやり顔を思い出していた。
「あの人、昔話好きだから。でもお客さんが興味あるなら、私も少しお話しちゃおっかな。たいして面白い話じゃないですけど」
男は「是非聞かせて下さい」と言わなければならないような気持ちになって、でも本当は聞きたいのかどうか分からなくなって、「お願いします」と感情なく口が動いていた。そのとき男の頭の中では、『女ってそういうところあるよな、聞いてほしいくせに、聞きたいんなら言ってあげますよ的な言い回しすること』なんて冷めた感情も生まれていた。
「もし良かったら」女は前置きを言った。
『そう、女は前置きが好きな生き物。そしてこの続きは良かった試しがない』と男は再び自分の中の統計学を引っ張り出そうとしていた。
「ちょっとアルコールが強いんですけど、私の好きなカクテルお飲みになりません?」
思っていた話の続きと違ったので男は拍子抜けしつつも「じゃあそれを」を言われるままに注文をした。カシャカシャとシェイカーの音が鳴り、目の前でショートグラスに黄色っぽい液体が注がれた。
「アラスカ、です。シャルトリューズという薬草を使ったリキュールの入ったカクテルです。けっこう、強いですから、ゆっくり飲んでくださいね」
一口飲んで、喉の奥がカァっと燃える感覚がしたことに少しテンションが上がった男は聞かれてもいないのに自らの話を始めた。
「私は中東のほうに長いこといましてね、出張でアラスカにも数回行ったことがあります。これを飲んだら何だかあの景色を思い出しました」

一瞬困ったような、でも微笑んでいるような表情を見せた女を見て、男は少し恥ずかしくなった。しかし女はそんな男の様子は気にも留めず、自分のことを語り出した。

✽  ✽  ✽  ✽  ✽

昔の話…聞きたいん…ですよね?
 今、お出ししたカクテルのリキュール、不老不死の霊薬として作られたものなんです。製造方法はごく数名しか知らないらしくて。そんな風に秘薬とかおまじないが信じられていた時代って素敵だと思いません?全ては神のみぞ知るって、そう思えたら楽なんですけどね。
 実は、私、医者だったんです。海外にいらっしゃったのならあまり耳に入らないかもしれませんが、日本の医学って本当に素晴らしい進歩を遂げたんですよ。30年前はレベル4だと生存率が10%を切ることが多かったガンだって、今は30%近くまで上がったし、難病に指定されていたものも治癒できるようになって指定から外れたものもあるんです。それなのに病院は今ほとんどがロボット化しています。森さんも…昨日お話しされていた女性です、彼女も話していたと思いますけど、ちょっとしたことで足元をすくわれたり、理不尽なクレームを突きつけられたりするのが当たり前の世の中になってしまったんです。医者も人間ですから、ミスがゼロかと言ったらそうではないでしょ。でもどうしてか訴えられる医者ってこれまで医療に全てを捧げてきて、身を粉にして働いて、たくさんの人を救ってきた方が多いんです。そういう先生って、同じ医師からは足を引っ張られたり、利益追求型の病院では煙たがられていたりして、誰も守ってくれないから…。
 実際、医療事故裁判っていうのは、患者さんがむやみに訴えているケースも多いし、専門性が高い分、有効な立証がしにくいというのもあって、原告つまり患者さんの勝訴率はかなり低いんです。だけど今はメディアが必要以上に騒ぎ立てて、医師を悪者に仕立て上げる風潮が強くって。だから裁判に勝ったとしても、精神的に追い詰められたり、体調を崩したり、結果的に病院から離れていく先生が増えていきました。

✽  ✽  ✽  ✽  ✽

 女は少しだけ目を潤ませ、少しだけ鼻をすすった。男は、この話は彼女自身のものだと想定した上で、もし思い出すことがつらい話なら、続きを話してくれてなくてもいいと思っていた。きっとこの話はハッピーエンドにはならない。そう感じていたからだ。何か言わなくてはと思い、「あの…」の「あ」の口を開けた瞬間、女はなくなりかけたグラスを引いて、頼んでもいないのに今度はシャルトリューズのロックを作り、男に出した後、再び語りだした。

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 多くの人の命を救いたいと思っていました。だけど、自分の命も守れないような人間に救えるはずはありません。高い志を持つ医師たちは少なくなり、病院は完全に利益主義、ノーリスクの医療を行うようになりました。結果、学校と同じく、ロボットの世界です。確かにミスはありません。もし何かが起きたらロボットにミスはないと主張すればいいし、手術にあたっては誓約書も書かせますから、病院側は窮地に立たされることはないんです。でも、いくら技術を結集した医療ロボでも、プログラムを超えた人体の反応や変化には対応できません。今でもロボットが行う手術には、スーパードクターと呼ばれる先生方が待機し、緊急事態に備えていつでも対応できるようになっています。あ、これは表向きには秘密ですから内緒にしてくださいね。でも、テクノロジーも本当に進化していて、これまで以上に医学と工学が一緒になって人の命を救うための研究が行われています。私はそこまでの知識も技術もなかったから、携わることはできなかったですけど。
 だからお客さん。もし病気やケガをしても、すんごいロボットが完璧に治療してくれますから、安心してくださいね。もしロボットが信用できなかったら、私のところに来てくれてもいいですよ。こう見えても腕には自信ありますから。

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 さっきの涙はどこへやら、女は少し意地の悪い笑顔を見せた。男は先ほどから飲んでいるシャルトなんとか言う酒のせいで、頭がボーっとし始めていた。さすがにロックは堪えるらしい。

「美味しいでしょう?けっこう女性に好まれるお酒ですから、是非使ってくださいね」と言って奥へ入っていった。

 女が消えていった場所をボーッと眺めつつ、男は無意識にグラスをもう一度口へ運びながら『是非使ってください』という最後の言葉を反芻し、その意味を確かめようとしていた。

「彼女、可愛いでしょ」

 突然、男の視界の左側からヌッと顔が現れた。男はびっくりして後ろに倒れそうになったのを腹筋に力を込めて耐えた。自分の腹筋を少し誇りに感じつつ、その現れた顔に目を向ける。
 頭髪を7:3にピシッと固め、黒縁メガネをかけ、黒のベースに白い水玉の蝶ネクタイをつけたバーテンダーの男が目の前にいた。

「ね?可愛いでしょ」

 重ねて言って、バーテンダーは思いっきり歯を見せて笑った。少し胡散臭さを感じる笑顔であった。年齢不詳だが、四十半ばといったところか。

「昔は美人スーパードクターとか言われて、メディアに取り上げられたりしてたんですよ~」と眼鏡のブリッジを中指で上げながら「次は何にしましょう?」と聞いてきた。さっき飲んだ酒がボディブローのように効いていたので、男はチェイサーと薄めのハイボールを頼むことにした。

 バーテンダーがチェイサーとハイボールをテーブルに置いたとき、男はふと胸に光るあるものに気付いた。それはよく知っているが中々間近では見ることのないものだった。しかも、バーテンダーの男からはそれを持っているという雰囲気が全く感じられなかったのだ。それに気づいてしまったが最後、男はどうしてもそのことに触れなければならないという強迫観念にも近い意志が、沸々とわき上がるのを感じていた。

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