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大人の事情④

 世の中には答えのないことが多い。「たられば」に生きる私たちは、いつだってその問題を見ないふりしたり、ちょっと横に置いておいたり、忘れたり、時には向き合って、解決したり、自爆したりしている。

 私の入社理由は③で書いたが、「この仕事をする理由」については見つからないまま時は流れていった。私が携わった「人材派遣」における『やりがい』とは何か?たしか会社的には「働く価値の創造」とか「あなたに合った働き方を」とかそういうことを掲げていたと思う。確認のために会社のHPを見たら、間違っていなかったので安心。そして直面する衝撃の事実。社員の平均年齢37歳。若~い。まぁ確かに私も25歳で退職しているし、私の同期の7割は辞めて、次のステージで頑張っている。これは私のいた会社がブラックと言うわけではなく(多分)、独立やキャリアップ志望の人を応援するという社風を持っているからだと思う。実際、全体的に役職者も若い人が多かったし、数字を上げれば年齢関係なく出世する、とても活気に溢れた風通しの良い会社だった。

 さて「やりがい」と言う面倒くさいものを欲しがった私は悶々としていた。まずは「数字」にやりがいを求めた。数字にこだわると言うことは、より多くのスタッフに働いてもらうということ。苦労して取ってきた案件の顔合わせの後にスタッフが「ちょっと考えさせてください」とでも言おうもんなら、どうにかして働いてもらおうと躍起になる。「あなたにピッタリの会社だと思いますよ~」「希望の条件に合う仕事はなかなかないですよ~」とか必死でアピールすると、スタッフは何かを察知して逃げてしまう。本当はスタッフのために仕事を紹介し、派遣先とスタッフとわが社がWin-Winの関係にならないといけないのに、私が「数字を上げる」と言うやりがいを求めたせいで、そのバランスが崩れてしまっていたのだ。
 「人を扱う商売」をするということはどういうことか。同じものは一つもなく、個性があり、感情があり、嘘もつくし、病気やケガもする、予測不能の商品を、ただひたすら信じてお客様にご案内すること。そして、万が一、不測の事態が起こったら、身を呈して、謝らなければならない。時に、何かしらの保証をしなければならない。世の中で一番大切なものは人であり、世の中で一番恐ろしいものも人だ。そんな大変な商品を扱っているということは、当時の私にはまだ理解できていなかったから、どこかで「人」を「モノ」として扱ってしまい、失敗していたのだと思う。

 私は今でこそ姐さんとか姉御とか和田アキ子とか(これはジャンルが違うか)言われるが、学生時代は根っからの先輩っ子だった。私の学生生活はバレーボール一色と言っていい。高校は強豪校に特待生として入り、寮生活で朝から晩までバレーボール漬けの毎日。プライベートがほとんどない中で、同期のメンバーと先輩を楽しませることに命を懸けていた。媚びを売っていたというわけではなく、先輩たちが喜んでくれることがただただ嬉しかった。後輩が笑ってくれたとしても、それは愛想笑いのように感じたし、何でも笑ってくれるので張り合いがなかった。一つ上の一番気難しい先輩にもあの手この手でアプローチし(絡み)、遂には気に入られたことも大きな自信となった。気難しい先輩に対しては、ゴマをするだけでなく、時にツッコんだり、軽くいじったり(当時はこの表現はなかったような?)することもポイントであるとこの時学んだ。本業であるバレーボールもちゃんと頑張ったので、大学もスポーツ推薦で入学することが出来た。
 大学時代も変わらず先輩っ子で、先輩にくっつき回ってご馳走になったり、先輩のために色々ネタを仕込んだりと頑張った。先輩から誘われた飲み会は断らず、カラオケではバラードは一切禁止してモー娘やDAPUMPなど盛り上がる曲しか歌わないような徹底した超先輩主義を貫いた。しかも大学は4年ある。後輩でいられる時間が長く、もっと言えば、院生もいるからずっと後輩でいられた。だけど、バレー部と言う括りで言えば、いくら院生がいたとて一緒にプレーするわけではないので、4年生が最上級生であることは違いない。それまでに後輩を顧みなかったことで、チームの一番上の立場になって本当に苦労した。私はキャプテンとなり、自分の代になってもっと強くしたかったから、オフも少なくして、練習メニューは基礎練習や体力増進を目的としたキツイものを多く取り入れた(大学では監督が厳しく指導するというよりは自主的に活動しなければならなかった。しかしメンバーはバレーボール推薦で入学するような全国大会で好成績を残しているようなレベルの高い選手が揃っていた。ちなみに私もそれなりです…)。しばらくして、ある2年生の後輩に突然避けられ始めた。明らかに練習の態度が悪く、声を掛けても返ってくるものがなかった。自分に非があるとは思わなかったので、その態度に憤りを感じ、きつく当たっていた。が、彼女の態度が良くなることはなく、ついには練習に来なくなった。私は自分を曲げるようで嫌だったが、キャプテンだし、彼女はレギュラーだったからこのまま休まれても困るし、と妥協して、話をするために家に行った。何か思うことがあるなら言ってほしい、悩みがあるなら聞くから、と歩み寄った。が、「何にもありません」とバッサリ切られた、と思う。いや、何か受け入れがたいことを言われたような…。自ら記憶を消しているのだろうか、家に行ったことまでは覚えているが、何を話したかハッキリ覚えていない…。どちらにせよお互い納得のいくような話し合いにはならず、彼女から練習ちゃんと行きます、との声も聞けず終い。私もいよいよムキになって、それならこっちも考えがあるから、とますます関係は悪くなった。いつからか練習に来るようにはなったが、二人のわだかまりは残ったまま、だけど表向きはそれなりに接していたので、周りも気付いているようだが気付かぬふりをする形で時は流れた。そして私にとって最後のインカレ(インターカレッジ)がやってきた。私の記憶が確かならば、2回戦か3回戦で青山学院大学に敗れ、バレーボール人生にピリオドが打たれた(その後社会人でも9人制バレーをしますが)。結局彼女とは最後まで分かり合えず、私は大学を卒業し、社会人となった。

 なぜ学生時代のやや苦い話をしたのか、それは「やりがい」の答えだからである。

 私は本当は後悔していた。彼女ととことんぶつかり合わなかったことを、向き合わなかったことを、そして、自ら投げ出したことを。ここまで自分が受け入れられない、または自分を受け入れてくれない存在は、今までの人生で初めてだった。だから、その責任が相手にあるとしか思えなかった。じゃあ彼女は誰に対してもそうであるかと言うと違っていた。彼女を慕う後輩もいたし、同級生とも仲が良かった。私は自分の思い通りにいかない彼女と分かり合うことを放棄しただけなのだ。
 人と向き合う人材派遣という仕事に携わって、私はこの苦い経験を自然と思い出すようになっていた。何故この人はこんなことを言うんだろう、するんだろう、そう考えていくうちに、相手を理解しなければ何も始まらないということに気付き始めていた。自分と合わない、理解できない、極端に言うと、好きではない人と、どうやって付き合っていくのか、そんな学生時代に置いてきた宿題を今ここで取り組んでいるのだと考えるようになっていた。世の中にはいろんな人がいる。すべての人と仲良く、楽しく、協力して、生きていけたら素敵だけど、そうはいかない。ましてや仕事で関わる人なら、自分の好き嫌いだけで行動することは許されない。だからこそ、人とつながるということがどういうことなのか、その答えにたどり着くことが「やりがい」となるのではないか、と。

 その考えにたどり着いてから、私は「受け入れる」ことを覚えた。全ての人を好きになって、菩薩のような心で接することは今でも出来ないが、この人はこんな人だ、だからこうやって向き合おう、と思えるようになった。それが例え自分の常識や理解の範疇を越える場合でも、だ。人の言動には、それぞれの人生の背景があり、歳を取れば取るほどなおさら大人の事情が合わさって、想像を絶することがあるものだ。

 さて、「やりがい」の答え的なものを見つけた私はその後順風満帆に行ったかというと、もちろん、そうではない。次の大人の事情に苦しめられることになる。続きは次回。では。

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