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ギョッとするもの。


関西(特に大阪)を歩いていると、
女装しているオジサンとか、全身ヒョウ柄のオバサンとか、
全身コスプレのUSJ帰りの学生とか、爆買いしている観光客とか、
色んな人を見る機会に恵まれる。

最初でこそ「ギョッ!」としていたが、
最近は、見れてラッキー!、みたいな感じになってきている。

そうやって人間は「慣れる」生き物なのだ。

ここ最近で見る度「ギョッ」とするのは、
イヤホンである。

こういうタイプの。

「あ!コード切れてる!!」

っていっつも思ってしまう。
一瞬で、あ、ワイヤレスか、って分かるんだけど、
一瞬だけ、ギョッとしている自分がいて、
ひとりで少しだけ恥ずかしいのである。

新しいものがドンドン出てきて、
自分が知らなかったり、持っていなかったりするものは
慣れるのに時間がかかってしまう。

スマホだって最初はそうだった。
私は確かにアンチタッチパネル派だった。
ボタンをいつまでも押していたかったのに、
ノールックでメールを打っていたかったのに、
パカパカを遠心力で開くのが好きだったのに、、、

いつの間にか、タッチパネルに慣れ、
パカパカしないことが"普通”になっていた。
そして今や、スマホの虫である。あー嫌だ嫌だ。
そのうちワイヤレスイヤホンも当たり前のように使っているのだろう。

長く生きていると「ギョッとする」ことが減ってくるように思う。
人間は学習する生き物だから、例え知らないコトやモノに出会ったとしても
これまでの経験から、予測し、対応できるようになってくる。
しかし、人間にとってギョッとする=驚きはどうも必要らしい。
驚きは脳にとって快感、つまりドーパミンを分泌させるからだ。

私がいつもワイヤレスイヤホンを見て、
ギョッとしながらもなぜかニヤッとしているのはそのせいだろう(違うか)。
男性がサプライズでプロポーズをして、成功するのはそのせいだろう(多分)。
※これは大体バレていることのほうが多いと思うけど
どんでん返しの物語がヒットするのもそのせいだろう(個人的に大好き)。

人はいつだって「ギョッ」を求めている。
だから私は人に話を聞く。
自分の知らない世界に、価値観に出会えるから。

自分はそれに一生を捧げてもいいと思うくらい好きなものを
ある人は人生で最も不要とするものに挙げることもあるだろう。
良かれと思って言ったり、してあげたりした親切が
相手を不快にし、怒らせることもあるだろう。

自分にとっての当たり前が、当たり前でない世界はそこら中にある。
だからストーリーが生まれる、私はそこに注目したい。

最近ハマっていることは、みんなに「普通の幸せ」を聞くこと。
普通について聞いているのに、私のとっては「ギョッ」であることも多い。

ある人(40代女性既婚)は言った。
『家族がいて、食べるものがあって、住む家があること』

ある人(20代女性未婚)は言った。
『好きな人と一緒にいて、生きていけること』

ある人(30代男性未婚)は言った。
『仕事があって、生活できること』

あぁそうか、確かに生きていること自体が幸せだと納得したし、
誰かと一緒に暮らすということも幸せであることは間違いない。
だけど、私はそれが一番に頭に浮かぶだろうか…と。

私(30代女性)は考えた。
『自分の生き方に誇りを持っていること』

私は結婚もしていないし(今は予定もないし)、
自分の目標を自分のために追いかけている人間である。
だから、今の自分にとっての、“普通”は、これしかない。
そりゃ「生活ができる」「仕事がある」「楽しく生きる」とか
表現の仕方も、価値観の切り取り方も、どうとでもなる。
きっとみんな普通に『誇りを持って生きたい』と思ってるはずだもん。

そもそも「普通」ってなんだよ、って。

普通=average(平均)であるとするなら、
結婚率、恋人がいる割合、就業数、幸福度なんかを全部出して、
普通の生活を算出した上で、基準を決めないといけない。
そんなの時代によって変わるに決まっている。

みんな、普通に幸せになりたい、って言うけど、
普通の幸せなんて、ないのかもしれない。
誰かにとっての幸せは、誰かにとっての驚きであり
誰かにとっての「ギョッ」は、誰かにとって普通なのだ。

毎日「ギョッ」とすることを見つけよう。
そしたらドーパミンが分泌されて、幸せになるよ、きっと。

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