「生きること」=「化かしあい」

小学校のころ、暴君だった担任が「下校前に詩を書いて提出しなければ帰宅させない」というのを始めた。どうもそういうものをさせていれば、今どきの子供も感受性が豊かになると考えていたらしい。

が、たいして関心があるわけもない生徒たちはもちろん書けず、怒った担任は何日か叱責ばかりしていた。そのうち生徒たちは書いて提出するようになる。図書室に皆で籠もり、詩人の作品を見てマネをして……というより、ほぼ盗作に近くて……どうとも思っていない「庭の花が」「風が」「雲よ」などとやっては、それを差し出して家へ帰ってゆくのだ。

これが俺には書けなくて、毎日のように怒鳴られていた。「書け」という指示をまともに受け取ってしまい「詩を書かねばならない」と思ってしまったからだ。目の前の同級生がたやすく剽窃をしているさまを「ズルだ」としか思わなかった。白いノートを睨みつけ、担任の言う「感動の心を」とやらを絞りだそうとし、出来ないからノートは白いままで、毎日担任は最後に俺を怒鳴りつける。しまいには呆れられ「お前はロボットだ。人間じゃない。みんなはああして感動を詩にできているのに」として、空気のように無視するようになった。

さて、これは誰が悪かったのだろう?

幼い小学生の頃は「毎日トラに襲われてるようなもの」に思えて、ひたすら震え上がっているばかりだった。いくらか成長してからは「あの担任はどうかしているのだ」と憤るようになった。

でも今は「俺がおかしかったのだな」と考えている。なぜならば………

「こうすれば厄介事を切り抜けられる」をしている同級生を見ていたのだから、そのままの事をすれば良かった筈だからだ。真面目に取り沙汰する必要がなかった。横暴な担任という「大人」を、要望どおりのものを差し出すことで満足させようなどと考えてはいけなかったのだ。同級生たちはズルをしたが、ただズルかっただけではないのだ。「目の前の横暴な大人を黙らせる」ための最適解を見つけたからそうしていたのだ。切り抜けて生き延びるためには、手段を選んではいけない。大人を前にしてそれを考えていられる。同級生たちはしたたかだったのだ。俺は真面目に受け取ってしまい、怯えきったままなのに感動とやらを絞りだそうとした。たとえ詩や作文が得意であっても、こんな状態では書けるものではない。手段を間違っているのだ。

大人も子供もない。この世は弱肉強食である。生き延びたければ手段を選んではいけない。最適と思ったのなら、反則でもためらわずに使うべきだ。カッコウが他の鳥の巣に卵を置いていくように。他者の要望に全面的に向かい合ってはいけない。完全に応じることでは「生きのびる」事が出来ないか、でなければカルト宗教の末端信者のように「いいように搾り取られるだけの、歩くATM」にされるだろう。

職場であんまり居心地がよくないなと思ってる人へ。たまには「逃げること」「反逆すること」を考えたほうがいい。君はいつの間にか「自分が満点ではないから苦しいのだ」と思い始めてるのかも知れないぞ。完璧に応えることで評価を得ようとばかり思わなくていい。まわりの人は「もっと狡猾」だったりするから。自分を責めすぎてまわりが見えなくなっているかも知れない。世間はそんなに立派とばかりは言えないんだから。

とか、懐かしい記憶を掘り返してみたり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?