見出し画像

【歴史】アメリカ南北戦争(American Civil War)再学習「1861-01: サムター要塞の戦い」

アメリカ南北戦争。"The Civil War"や"American Civil War"といった形で表記されるこの戦いは、アメリカ合衆国の歴史においてはもちろんのこと、世界史にも影響を与える大規模な内戦でした。

アメリカ合衆国の北軍(Union)、アメリカ連合国の南軍(Confederate)。ここに挙げた単語のみならず、あらゆる面で名称のひとつひとつから論争が続いている、「最大植民地国家の内戦」という特殊な戦争。

毎度毎度ながら、私も改めて学び直しをやらんとよう知らん。思想にせよ文化にせよ、少なくとも戦争の推移を知ることから始めるのは、きっと自分の思考にとっても役に立つ。

というわけで、メモを兼ねてこの記事を作るものです。今回は南北戦争の主要な会戦について、時系列順に追いかけてみる試みですね。細かいのを拾い始めたらキリがないので、まずは英語版Wikipediaに掲載されているもののみに特化します。


1861年・The Civil Warへの必然的な行進

Никола́й Алексе́евич Бирилёв

日本における文久元年です。この年には、「ロシア軍艦対馬占領事件(ポサドニック号事件)」が発生。ロシア帝国と大英帝国のグレート・ゲームの極東版とも言える展開を見せ、外国奉行の小栗忠順による献言も幕閣に容れられなかったことから、危うく対馬が露英両国いずれかの租借地になる危険があった事件として知られています。

そして、海の向こう、アメリカ合衆国。共和党のエイブラハム・リンカーンが第16代大統領に当選し、いよいよ北部の"自由州"と南部の"奴隷州"の決裂は鮮明なものになります。

無論、それは「最後のボタン」に過ぎず、奴隷制度だけでも1820年のミズーリ協定の成立、1850年協定による緊張緩和、カンザス・ネブラスカ法による破滅的な対立の確定、そしてドレッド・スコット判決での「(黒色人種は)劣等な存在であり、社会的にも政治的にも白色人種と交わることに適しておらず、それだけ劣っていれば白人に尊重される権利を有しない」という一文があるでしょう。

また、北部と南部にとって、奴隷制度はすなわち経済政策と外交政策にも密接な関わりがあり、しかも「合衆国」における「連邦制」なる最大の題目に関係するものでした。

が、今回はあくまで戦史をメインに追いかけましょう。アメリカ合衆国は1752年、まだ独立前のイギリス13植民地時代にグレゴリオ暦を導入しているようですので、日付はそのまま書けるのが楽ですね。

彼曰く「黒色人種は白色人種と平等ではないという偉大な真理」

Alexander H. Stephens

1860年11月の大統領選挙でリンカーンの当選が発表されると、早くも12月にはサウスカロライナ州が合衆国からの離脱を表明。それからミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州といった、奴隷制が経済と自治を支える州が離脱します。

2月4日、7州はジェファーソン・デイヴィスを臨時大統領とし、アメリカ連合国(Confederate States of America, CSA)を結成。これは、3月4日のリンカーンの正式な大統領就任よりも早いものでした。

連合国臨時副大統領のアレクサンダー・スティーヴンズは、CSAのイデオロギーと私有財産としての奴隷への考え方について、3月21日の「コーナーストーン演説」で明確に表現しています。


「我々の新たな政府は、まさに反対の考えに基づいて成り立っている。黒色人種は白色人種と平等ではないという、偉大な真理がその礎である。上位人種に従属する奴隷制こそが、彼らにとっては自然かつ正常状態なのだ」

Our new Government is founded upon exactly the opposite ideas; its foundations are laid, its cornerstone rests, upon the great truth that the negro is not equal to the white man; that slavery, subordination to the superior race, is his natural and normal condition.


21世紀の今から見ると、実におどろおどろしい。しかし、それが21世紀の今も十分な支配の論理として存在している考え方です。

かくて、合衆国から見ての「反乱」あるいは「分離」、連合国からの見ての「自由」あるいは「自然」の結束は、「ともにアメリカ原住民を打ち払って手に入れた楽土に育った同胞」という次代へのいびつな禍根のもとで、ついに平和的解決の道が消え失せることになります。

重要なのは、北軍にも奴隷制維持(推進)論者は存在したし、同じく南軍にも奴隷制懐疑(廃止)論者は存在した事実。奴隷制度は合衆国と連合国の主要な対立点でしたが、日本史を含めた世界史のイベントの多くが複雑な縦横の関わりによってできているように、南北戦争もまた決して単一の要因で組織の特徴を規定することはできません。

それでも、戦争は起こる。

利益か、矜持か、何もかもわからないうちにか。「武力をなくせば、ただちに戦争が避けられるわけではない」ことは、この南北戦争もそうであるとともに、常備軍制が一般化していない時節から数多の干戈が交えられてきたことを思い起こす必要がありそうです。

サムター要塞の戦い(Battle of Fort Sumter)

James Buchanan Jr.

「自由とは何か」「人種とは何か」「権利とは何か」の大きな渦のもと、4月12日に始まりの時は訪れました。「サムター要塞の戦い」です。

サウスカロライナ州チャールストン。ピューリタン革命を経ての王政復古期、ステュアート朝イングランドのチャールズ2世に由来する名を持つこの街が、南北戦争の始まりを告げる舞台となりました。

先に書いたとおり、サウスカロライナ州は最も早く連邦離脱を表明。年が変わって1861年1月9日には、当地の士官候補生が北軍(合衆国)の船に砲撃する事件も起きており、すでに準戦争状態にはあったのかもしれません。

しかし、間違いなく「内戦の始まり」という規定をするならば、このサムター要塞の戦いになるようです。

リンカーンの前任者である、アメリカ合衆国第15代大統領のジェームズ・ブキャナンは、「有能な弁護士であり外交官だったが、大統領になるには最悪の才覚と時期だった」と評されるほど、歴代大統領の格付け調査でも最下位の常連です。

北部と南部の対立に解決策を提示できなかったうえ、軍縮がこの最大の内戦を長引かせる原因になりました。多くの優秀な将帥が、時に郷土愛から、時にイデオロギーから、時に出世の野心から連合国へ合流。早くも兵員の組織力と士気を高めて、戦争序盤の主導権を握ることになり、「偉大なるリンカーン」の伝説に対比される"闇"としての役割に任じられたとも言えるでしょう。

サムター要塞・黒船来航・コレラ大流行の小さな繋がり

Pierre Gustave Toutant Beauregard

サムター要塞はチャールストン港を守るために作られた、砂州の上の沿岸要塞です。サウスカロライナ州が合衆国を離脱してからも北軍の部隊が駐留していたため、南軍はただちに撤収するように要求していますが、守備隊はこれに応じませんでした。1月の砲撃事件は、この要塞への物資補給を阻止するために実施されたと考えられています。

4月12日。南軍の代表的な指揮官のひとりとして後世まで語り継がれる、P・G・T・ボーリガード将軍は数度の降伏勧告を行っていましたが、この日はついに副官のジェームズ・チェスナット・ジュニア大佐らに砲撃の可否を一任。

一方、この日も彼らの降伏勧告を拒絶した北軍の指揮官であるロバート・アンダーソン少佐らは、すでに食料が尽きる寸前でも戦意を維持したのみならず、支援が届くための時間稼ぎを行います。

その意図を察したチェスナット大佐は、すでに南軍が掌握していたジョンソン要塞からの砲撃を決断。「最終的な砲撃命令を出したのは誰か」という点そのものが論争になっていますが、ともかくこの少し前に北軍の補給船を追い散らす砲撃を行っていたのと合わせて、明確な戦争状態に突入しました。

4年と27日間で100万人近くが死に、相当な数の負傷者を生じ、現代まで続く禍根をいくつも残した戦争の幕開けです。最も悪いことに、この内戦の犠牲の数字すら霞む"大戦"が、この先に複数待っていたわけですが……。

このサムター要塞砲撃の数日前、リンカーン大統領は閣僚の反対を押し切って救援を決定。フロリダ州へ派遣されていた艦隊に、チャールストンへの転進を指示します。

その救援を命じられた艦隊に、外輪フリゲート艦の「ポーハタン(USS Pawhatan)」がいました。ご存じの方も多いでしょう。彼女のかつての所属は、アメリカ海軍東インド艦隊。1854年(嘉永7年)、マシュー・ペリー代将の乗る「サスケハナ(USS Susquehanna)」などともに、浦賀へ第2回目の「黒船来航」を行ったときの参加艦でした。

USS Pawhatan(1850)

日米和親条約につながる、2回目の来航艦隊は9隻。うちポーハタン、サスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、マセドニアン、ヴァンダリア、サプライの7隻は南北戦争にも参加しました。

ただ、少し先、1863年のこと。ミシシッピはまさしくその名前通りにミシシッピ川を遡上し、ポートハドソン包囲戦(Siege of Port Hudson)に参加しますが、ここで座礁したことで鹵獲防止のため自沈を決意。南軍の砲撃を受けながらの作業の結果、火薬庫に火が回っての轟沈により、多くの犠牲者を出しての放棄となりました。米墨戦争、琉球王国および幕政日本への砲艦外交、アロー戦争での英仏軍支援など各地で歴史を積み重ね、南北戦争中も複数の戦果をあげたベテランフリゲート艦の最期です。

なお、1858年(安政5年)の幕末日本におけるコレラの大流行(2回目の大流行/安政コレラ)は、このミシシッピに搭乗していた陽性の船員が発火点とも伝わっています。1858年に長崎と下田に来航し、そこから日本全土に広がったことで、尊皇攘夷論、とりわけ攘夷論の加熱要因のひとつになりました。

コレラは、当時から世界有数の人口過密都市だった江戸にも上陸。罹患した場合の致死率は4割を超えたという話まであり、漫画の『JIN-仁-』で戦った悪疫の凄絶さが思い起こされますし、現実に「虎狼痢」と当て字がつけられたのもわかろうものです。

34時間に及ぶ砲撃と降伏

Battle of Fort Sumter

砲撃は34時間にも渡って行われました。そして、攻撃開始後に下りたサムター要塞の星条旗は、再びこの戦いで上ることはなかったのです。

流れで見てもわかる通りに、戦闘自体は小競り合いでした。要塞にこもる北軍が、南軍の砲撃によって危険に晒された露天砲台を使わなかったこともあり、両軍ともに敵の砲撃での戦死者は現れていません。

「同じ港を守るための要塞と要塞の砲撃戦」という特殊性と、まだ少し前まで戦友だった相手を撃つことへの忌避感があったことも、何がしかの原因で死傷者を出す砲撃戦ではなく、その象徴としての意味を強調したのかもしれないと考えられます。

しかし、真に象徴的なことに、「北軍兵士が南軍の許可を得て休戦および撤退の100発の礼砲を撃っている際に暴発死」という記録もまた残っています。

南北戦争における最初の「戦死者」となったダニエル・ハフは、アイルランド生まれの移民であり、砲兵連隊の一員として47発目の礼砲を担ったところで大砲が暴発。彼はほぼ即死し、複数の負傷者を出しました。この事故がきっかけで、以後は礼砲の回数が50回に短縮されたと記録されています。

そして、数日後。南北戦争で2番目の戦死者(戦傷死者)になったのは、この暴発で備蓄していた弾薬の誘爆に巻き込まれた、同じ砲兵連隊のエドワード・ギャロウェイでした。彼もまたアイルランド生まれの移民であり、この内戦を通じてのサブテーマとなる「移民1世や移民2世らと、100年以上前からの"早期に開拓を達成した祖先を持つ者たち"の対立」をも予期させるものです。なお、彼の兄弟もまた、先の項目で触れたポートハドソン包囲戦に参加し、そこで致命傷を負って戦傷死しています。

大砲や砲弾の品質という現実的側面もさることながら、「互いに自らの武力によって、結局自らを傷つけることになる」……そんな内戦(Civil War)すべてを示すような歴史として、この戦いは記録と記憶を残すことになりました。

サウスカロライナ州の喉元にあるサムター要塞は、その後の戦争期間中を通じて南軍の支配下にあり続けましたが、海軍力で優越する北軍と複数回の戦闘が行われることになります。

13個の星の「反逆」あるいは「抵抗」

Rebel Flag

かくて、戦争は始まりました。ディープサウス7州に続き、アッパーサウス4州、すなわちバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州も合衆国を離脱。連合国への合流を表明します。

連合国はのちにミズーリ州とケンタッキー州の受け入れも発表しましたが、この2州は正式な離脱を表明していない係争地でもありました。

ともあれ、南部の13州がそろいます。「偉大な独立の父たち」が戦った13個の州をそろえることは、「正義の戦い」を標榜する者にとって避けられない使命だったのでしょう。そして、この13州が、未来で最も有名になるアメリカ連合国の象徴、本来は1863年から使用された連合国海軍の艦首旗『レベル・フラッグ(Rebel Flag)』の13個の星となりました。

一方、リンカーン大統領は3ヶ月の期間限定での義勇兵募集を布告。75,000人の動員によって、この"反乱"の鎮圧を図ります。南軍でも、すでに義勇兵の募集が始まっていました。

1861年4月。3ヶ月もあれば、戦争は終わる。悪くとも、クリスマスまでには。そんな展望は、五十数年後のWW1でも、あるいは五十数年前のナポレオン戦争でもそうだったように、この時もまた儚き願いとなって消えゆくのです。

━━━━━━━━
【Twitter】
https://twitter.com/mariyatsu
【Note】(長めの記事更新)
https://note.com/mariyatsu
【YouTube】(公営競技動画更新)
https://www.youtube.com/@mariyatsu
【FANBOX】(日々の記録/読書記録更新)
https://mariyatsu.fanbox.cc/

#歴史 #世界史 #アメリカの歴史 #南北戦争 #サムター要塞の戦い